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Posted by - 2017.08.19,Sat
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Posted by LittKidd - 2008.12.25,Thu
読み終わりました。以下ネタバレしますので未読の方はご注意。

世界観と細部は、とてもSFで面白い。高度に発達した医療産業社会、そこでは「健康であること」が何よりもまず第一に求められ、人間(特に若者)は貴重な社会的資源(リソース)として、想定しうる限りの精神的・身体的危機から社会的に遠ざけられている。ニコチンやアルコールの摂取は犯罪、体に悪いことは睡眠不足程度のことでさえ眉をひそめられるようなモラルが浸透し、家庭の献立ひとつからシステムが決定してくれる、生活における判断のほとんどが“外注"で処理される社会、という設定。人は成人すると体内に分子レベルの大きさの機械をインストールして、身体の異常や病気の早期発見や治療が可能になるため、いわゆる老衰以外に、ほとんど健康を害する機会というものがない。その“WatchMe"と呼ばれるマシンで、人と人はまた社会ともオンラインで繋がり、健康状態や氏名・職業といった基本的個人情報も、誰もが瞳に装着した“拡張現実"コンタクトレンズを通して見ることができる。それは思いやりや同調(ハーモナイズ)が根底をなすコミュニケーションの新しい形であり、また反面、緩やかな相互監視のシステムでもあるという社会。そんな社会の在り方に、息苦しさと違和感を感じた三人の少女が起こした、小さな反乱の芽が…みたいな話。ではないな全然。

いわゆる国家とか政府といった形態ではなく、WatchMeによるライフデザイニングシステムを基本とした“生府"という一種の契約集団が人々のまとまりの単位であったり、もちろんそうしたWatchMe思想と相容れない旧式の国家や民族を単位とする人々との紛争があちこちにあったりと、新しい「セカイ」丸ごとを、おそらくは前作『虐殺器官』のあのエンディング(この作品では、それは〈大災禍(ザ・メイルストロム)〉と呼ばれる)を出発点として設計し直した、その労力は賞賛に値する。大きな部分として、そのダイナミズムはひとつの読みどころとも言えると思う。ただ、ちょっと念を押しすぎっていうかその描写がしつこい。もう繰り返し繰り返しいろんな生活の側面を通してそれが反復されるので、読んでてまたかと思うし、これもう少し短くできるだろ、とも思ってしまう。実際、文字数稼ぎなんじゃないかと邪推したくなるような箇所も個人的な視方ではいくつか見られた。そういう管理社会そのものの描写はいちいちあっていいんだけど、それに関して主人公が、毎回のごとく同じような感想を漏らさなくても良さそうなもんだ。

動物の脳や筋肉などの生体を利用した半自律機械とか、個人認証・追跡のシステムや“拡張現実"を利用した仮想会議などの、細かいギミックはさすがと思わされるSF濃度の濃さ。作品の社会的な背景とうまく結びついていて無理がないし、ストーリーの運びや時にはキャラクタの性格描写としてもうまく機能している。その有機的なつながりが作品全体における(いくつかの、小さな)エンジンともなっている。クライマックス、荒涼とした高高度な国境の山岳地帯を、六本脚の電気山羊と主人公がふたりで歩いていく、みたいな風景がたまらなく魅力的。

女性の一人称や、作者の言う少女達の「百合的」な関係性の描写は、正直言って失敗してる。類型をなぞりすぎてて、というわけじゃないけど、肉体的精神性っていうか生々しさって言えばいいのか、そういうリアリティがないように思われた。三人いればもっと嫉妬とか愛憎があるだろう、という。特にキアンの扱いはぞんざいすぎやしないだろうか。彼女がその場にいることで、ミァハ←→トァンという対立項目の強さや、少女同士の隠微で密閉的な関係性といったものが薄らいでしまっている。かといってじゃあ三人という数字ならではの、引っ張り強度の高い三角形があるのかというと、やっぱりキアンはサブ的な存在でしかないのだ。ちょっと中途半端。

『虐殺器官』の主体性の希薄な主人公に較べると、今作のトァンは随分と強い意志を持つようにはなった。人称を女性に変えた意味は、こういう部分ではあったのかもしれないと思う。ただやっぱり場当たり的なセリフや感情描写も多く、キアンや父親、ミァハと相対しているときでさえ何を考えてるのかわからない、茫漠とした性格の人、という印象も拭いがたい。もっと読み込めばちゃんとそうじゃないように表現してあるのかもしれないが、今のところはそんな感じ。泣いたり怒ったり、とかの感情の表出がどこかデジタルで唐突なのだ。これはもう作者の個性かも。以前ブログで「感情移入して映画を観たことなんてない」的な発言をしていたようでもあるし、多義的なとらえ方の出来る物言いではあるけど、「入り込んで、熱くなる」ようなことに対する危機感というか、そういうのを嫌がる気分みたいなものは確実にあるような気がする。それが物語の第一の意義ではないんだ、という主張があるような気もする。

読みながらすごく気になっていた、問題の“etml”文体、これは最後にオチがついて救われた。〈angry〉〈/angry〉とか〈boredom〉〈/boredom〉といったタグで囲われた文章がそのまま当事者の感情の起伏を表す、という文学史上まれに見る暴挙なのだけど、何のフォローもなく終わったらどうしよう、と相当にはらはらしながら読み進めざるを得なかった。てかこのエピローグはむしろ、プロローグとしてあった方がいいんじゃないだろうか。そのままはだめだけど、ベールに隠す部分は隠していきなりこれで始まる、とそれはそれでワクワクしそうな気がする。というか、じゃないと、俺みたいに途中で本を投げ出したくなる衝動を抑えきれない人も出てくるんじゃないだろうか。本編であれだけ世界観の解説を丁寧にやっているのだから、ここで親切であっても全然いいと思うのだけど。もったいない、というかここはふるいにかけるとこじゃないっていうか。

作者は徹底して言葉の力というものを信じている人なんだと思う。“etml”みたいな文体、様式を考え出して実行するところにもそれは表れている。「言葉だけが世界を変えることができる」、そんな思想をすら持っているんじゃないだろうか、などと言ったら、小説の内容をストレートに受け取りすぎだと言われるかもしれない。でも『虐殺器官』も『ハーモニー』も、最終的に「言葉によってセカイが変わる(壊れる)」お話だ。そのネタ、虐殺文法や人間の意識を消去するハーモニー・プログラムを実行するコードの詳細は明らかにされないのだが、そこが意外とこの人の弱点なのじゃないか、という気がする。性格が正直なのかもしれないが、そういうコアとなる部分は文学的、文芸的な「テーマ」の中に「隠して」しまえば良いのにと思う。SFというものへのこだわりがそれを潔しとしないのだとしたら、それを隠したとしても面白い作品は作れるはず、という実例はたくさんご存じだろうからいちいち書かないけど、むしろそういう小説の方が物語として豊饒さというものを獲得しうる可能性を持っているのでは、という思いをあくまで個人的にだが自分は持ち続けている。

生き抜いて、また次の作品を読ませて欲しいと思う作家のお一人です。




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Comments
無題
こんにちは、ニートポスト。 Internet Explorerでサイトの問題点は、これをテストするという、ある... IEは依然として市場のリーダーであり、人々の大部分は、この問題が原因であなたの素晴らしい文章を見落とす可能性があります。
Posted by NEX-5N - 2011.11.13,Sun 12:30:49 / Edit
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