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Posted by LittKidd - 2009.10.19,Mon


清野賀子の写真が好きだ。

何にたとえていいかわからないが、風景の、うつろさ、または化け物じみた生命感を、なんでもないもの(廃物、枯れかけた観葉植物、ガードレールといった)に映して、それを切り取って見つめているような。そんな幽霊みたいな写真の在り方が面白く、また、自分にとってはとても安らげるものだった。

一冊目の写真集、『The sign of life』をはじめて書店で手に取ったとき、興奮で体がぞくぞくとしたものだ。こんなに好きな写真はほかにない、もっと見たい。そう思ったが、高くて買えなかった。万引きまで考えフロアを右往左往したが、よくよく考えて「もうちょっと稼げるようになったらご褒美に」と言い聞かせ、よした。

そのうち『The sign of life』はどの書店からも姿を消した。よくあることで、本には買い時というものがある。勝手に悔し涙を飲んだが、あとでネットで買えることが分かってほっとした。でもあんなにすごい写真集が、なぜこんなに話題になってないんだろう。日本のバカ。総じてバカ。そういう気持ちでずっといた。

先週の金曜日、立ち寄った書店の写真集コーナーで、第二写真集『至るところで 心を集めよ 立っていよ』を見つけて、買った。雑誌『真夜中』での連載も始まっていたので、その流れで出版決まったんだと、わくわくしながら名前を検索。6月か7月に亡くなったらしい。憧れだった先輩が突然死んだ、今はそんな気持ちだ。

『至るところで 心を集めよ 立っていよ』は、またいっそう素晴らしく、絵にならない、心躍るものでないようなものたちばかりが映されている。でもたまらなく美しい。いや、美しくはない。美しくなくて別に良い。それでいい。僕にとってだが、そこにあるのは、ただ、心の有りようなのだ。というか、そういう有り方の選択のひとつとして、それがある。そう許されている、そういうことじゃないだろうか。

なにかしらの手がかりを求めて、巻末の写真家本人によるエッセイを読む。だが写真の知識もないし、現代のことなど何一つ分からない僕には、なぜ彼女が死を選んだのか、ということも分からない。ただ『至るところで 心を集めよ 立っていよ』というフレーズは、清野さんの写真にはぴったりだと思う。さようなら。

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http://www.osiris.co.jp/egs.html


ランドスケープ写真の一つの到達点ともいえる写真集『The Sign of Life』(2002)から7年を経て、本書は写真家・清野賀子の2冊目の写真集となります。
本書に収録した写真のほとんどの撮影地は東京で、35ミリの小型カメラを使用しています。出会った対象に即応するように、時には被写体に近づいた位置から、街や事物や人物など、さまざまなものに視線が向けられています。けれどもこれらの写真のいずれにおいても、スナップショットともプライベートな生活の記録とも異なる、独特のヴィジョンが立ち上がっています。

「写真とは何か」を常に考えてきた清野賀子は、特定のテーマを設定し被写体を選ぶのではなく、言葉に置き換えることができないヴィジョンを求め、写真家の身体が被写体に反応したその瞬間に起きた出来事の痕跡としてのイメージ自体にできる限り語らせる……その独自の写真へのアプローチは、私たちの世界に対する知覚のあり方や思考を変える可能性をも備えている写真というメディアの特性を、新たに発見しようとする一つの試みだと言えます。

カメラという装置を使って、名も無き被写体たちの〈存在の輝く瞬間〉をとらえ、そこに見る者と世界に向かって開かれた〈通路〉を提示し得る可能性……それが、清野が写真というメディアに託した事なのかもしれません。

なお、「至るところで 心を集めよ 立っていよ」は、ドイツの詩人パウル・ツェランの晩年の詩からとられています。

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略歴

清野賀子(せいの・よしこ)
1962-2009
東京生まれ。1995年より写真を始める。

個展
1996 「Yoshiko Seino with Switch」コム・デ・ギャルソン本店、東京
1999 「Emotional Imprintings」ギャラリー小柳、東京
2003 「The Sign of Life」ヴィンタートゥーア写真美術館、スイス
2008 「a good day, good time」ギャラリーTRAX、山梨
   「a good day, good time」プンクトゥム、東京

グループ展
1998 「Gel」ダメリオ・テラス、ニューヨーク
2000 「Sensitive」カオール写真祭、カオール、フランス
   「反記憶??現代写真II」横浜美術館、横浜
2001 「Surface: Contemporary Photography, Video and Painting from Japan」オランダ写真センター、ロッテルダム
2003 「Japan: Cotemporary Ceramics and Photography: Tradition and Presence」ダイヒトアホール、ハンブルク
2004 「コモン・スケープ??今日の写真における日常へのまなざし」宮城県美術館
2007 「Towards a New Ease」ヴィンタートゥーア写真美術館、スイス

写真集
『The Sign of Life』、オシリス、2002年

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Posted by LittKidd - 2008.11.26,Wed
デンマークの人で100年くらい前の人。
知識としてはまあそれくらい。目録も展覧会の説明板もほとんど読んでないが、その絵はこの身に染みました。

ハンマースホイの絵は色数に乏しい。フォルムはにじんだりぼやけていることが多く、一見なんかエッジが立ってないような感じ。だが平板な印象というようなことはなく、よく見ると何層もの光の(あくまでぼんやりとした)レイヤーが、信じられないほど微妙な明暗の奥行きを作り出しているのがわかる。彼の絵のなかでは、光という存在にこそ明確に主役の座が与えられている。色とかフォルムとか構図はそこに隷属する要素にすぎない。

ハンマースホイには大別して二種類の光の描き方がある。
その第一は、光というものの性質に反して、まるで気体か、あるときなどは粘性の高い液体のように、窓から侵入して部屋に充満してゆく、「ふくらみ」とか「重さ」を持ったように描かれる「光」だ。そこでは非常にゆったりとした「光の動き」までもが捉えられている。一定方向の動きとは限らないし、手前と奥の部屋では、その動きの「速さ」までが違っていたりする。とても現実の光をそのまま描いているとは思えない。かたちなきものをデフォルメしている、とも言えるし、空間ばかりか時間をも操作している、とも言える。

第二の光は、ハイライトだ。またこれも、いつも同じレベルの反射、なのでなく、その強弱の幅がすごい。小さな水たまりのようにビビッドで明らかなものもあれば、まるで誰かがそっと手を置いた、そのあとがぼうっと弱く輝いているようなかすかなものまで。テーブルや陶器のハイライトは強い方、手やうなじなどの肌はかすかな方、というとわかりやすい。その間に無数のレベル差が存在していて、それがモチーフのもつ質感を、あらゆる角度、浸入の度合いと深さから規定していく。一枚の絵の中に、だいたい四カ所か五カ所くらいのアクセントキーとなるハイライトがあって、それらを起点に柔らかな光のモザイクが展開してゆく、という構造、というか流れがある。

いうなれば、部屋に差し込む、光の動き、そのスピードと軌跡。それを目で追わせることに、ハンマースホイの描く光の意義がある。極端なこというと、光だけが重要なのだ。唐突だが、たとえば(こないだ見た)ワイエスはどうだろう。モデルになる姉弟だったり朽ちかけた農家だったり、木の上に置かれた義手だったり、そこには題材となるものの取捨選択があり、つまりはモチーフにドラマが求められていることがわかる。あたかも無造作に切り取られたような構図や、『松ぼっくり男爵』といった、聞けばなるほどと思わせられるタイトルなどにも同じことが言える。すなわち、絵の背景にあるものが、絵の中、もっと言うなら絵の持つ価値の中に含まれているのである。

単純に時代や作家性の違い、なのかどうかなどは、美術の知識に乏しい自分にはさっぱりわからないが、何が言いたいのかというと、ハンマースホイの絵は、そういった背景とかドラマだとかいったようなものを全く必要としていない、ということなのだ。誰もいない室内や、後ろ姿しか見せないモデル、モノトーンに近い色彩、といったものは、ほとんど意味らしい意味など持たされていないのである。そこに意味を求めすぎると、ハンマースホイの絵はとたんにつまらなくなる。「ミステリアス」で「不安さえ覚えるほどの静謐さ」みたいなものに堕してしまう。そんな「見ればわかる」ようなことを、イヤホンで音声解説か何か聞きながら(知らないけど)フンフンと「学習」している人を見てると、なんかもったいないっていうか、それは後でやればいいのに、と思ってしまう。

光の動き、そのスピードと軌跡。それを目で追い、ただ辿る、描かれた対象の表面を、光と一緒に滑ってゆく(できることなら指でなぞりたい!)。それだけのことが、恐ろしいほどスリリングで、時間を忘れるほどに、ただただ美しい。そういう認識を持って野外(湖とその湖畔の小径とかを描いた)の絵とかを見ると、その光の無方向な炸裂具合に、なんかもう頭がおかしくなりそうになる。逆に、でかいホールで暗〜い中で会合してる絵とかも、あまりにもかすかで弱々しい光源の求心力がすさまじくて、見ててクラクラしてしまう。

僕にとってハンマースホイの絵とはそういうものでした。あんなに幸福な時間は本当に久しぶりだった。
メッチャ疲れた。

ムスメが限界だったので、フェルメールはまた来週ということに。
そんな体験の後でレオナール・フジタ展のポスターとか見ると、何かの冗談ですか?って感じになる。
自分の仕事に関してもそう。なんかもう全てがバカバカしいのである。困った。
Posted by LittKidd - 2008.11.23,Sun
お昼前に家を出て、上野の国立西洋美術館へ。お待ちかね!のヴィルヘルム・ハンマースホイ展です。

ハンマースホイ、いい。すごい。思わずクソ高い図録も購入。また印刷(再現性)が良くないんだコレ。紙かなぁ…てか実物が良すぎるのかも知れないが、でも画集とか出てない(手に入りにくい?)みたいだし、ないよりはマシだから買った。

それぐらい、いい!
期待を遙かに上回るぞこりゃ…入って一枚目の、画家の妹の肖像画を見て胸が躍りました。

感想はまた後日。あーヤバい。
Posted by LittKidd - 2008.11.23,Sun
金曜、仕事が比較的早く引けたので、渋谷のBunkamuraミュージアムにワイエス展へ。

ワイエス、実物を見るのは初めて。テンペラやドライブラッシュの大作は少なく(美術の教科書に載ってる『クリスティーナの世界』とか。来てない)、むしろそこに至るスケッチや水彩での習作、というのをメインにした展覧会。だからワイエスはひと通り見たことがあって、そこから一歩進んだ興味を持ってる、ていう人にはいいと思う。人の顔や野ざらしのバケツ、ペンキで塗っただけの壁といったパーツのスケッチにはじまり、色んな面からのアプローチで、画家が対象のカタチを徐々に把握して、自分のものにしてゆく過程が感じられ(るような気分になり)ます。

絵画の見方などミジンも知らない自分ですが、質感や光の置き方はもちろんのこと、ワイエスってものすごく構図にこだわる人なんだな、というのが感想です。いわゆる絵になる構図というのを外して、いかにもある瞬間をたまたまふっと捉えました、というふうに装いたいのかな、そんな意識を感じた。あるラフなんかでは、(たしか)5×4分割くらいのグリッドを引いて、バランスを見ながら人物の顔とかランプとかを配置しているのがわかる。まあみんなしてるのかもしれないけど。それぐらい、いろんな画角を試してるし、寄ったり引いたり、物の位置も直したり、軌道修正と試行錯誤の果てにあの完成されたトリミングに至るんだな、という。仕上がり、構図だけを見ると、スナップ写真みたいに軽いものを目指してるというか、だからやっぱり「瞬間」にこだわってるんだと思う。その時の風と光を定着させるのに、とても短いシャッタースピードを採用している。

作品No.56の『オルソンの家』とNo.140『野に置かれた義手』などがお気に入りでした。
どちらも木の肌の質感が撫でたくなるような素敵さ。構図も大胆というか豪快で、いいです。

展示の仕方についてひと言いわせてもらえば、髪に鉛筆とか水彩、というものがほとんどだったのである部分しょうがないのだが、額についた(絵をカバーしてる)ガラスの反射がとにかくすごくて。ミュージアムの天井が低いせいもあってか光源のダウンライトまでが時に映り込んでおり、下から右から左から、それこそいろんな角度から寄り引きしないと、細かいタッチの見られない作品が少なくなかった、のが少し残念。好みの問題かもしれないがライトの数が多く、室内も若干明るすぎたような気がする。

とか何とかまた知ったふうな口きいちゃってこのハゲ!
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