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Posted by - 2017.09.23,Sat
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Posted by LittKidd - 2008.10.15,Wed


『ナイト・ウォッチ』が意外とつまらなかった。『デイ・ウォッチ』に期待。
(文と写真は関係ありません)
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Posted by LittKidd - 2008.10.09,Thu
あーくそ。勝ち負けで言えば、完全に負けた。

頭が良く(良識があり)健康で、確固たる信念と人並み外れた行動力を持ち、周囲からも将来を期待されている。
明朗快活、人なつこい性格で、美しい笑顔が輝かんばかりの、この映画の主人公が僕は大嫌いだ。
だってコイツは、自分を愛する家族に背を向け、心配してくれる人々を省みず、旅で得た様々な場所や人々との出会いも捨てて、ただ無謀なだけの荒地行の果てに独り死んでしまうのだ。モデルとなったクリスの遺体発見当時にも、彼に対する批判は多くあったのだそうだ。十分な食料を持たず、緊急の場合の連絡手段も確保せず、アラスカの荒野で何ヶ月も過ごすにはあり得ない軽装で…「アラスカの大地への冒涜」とする声すらあったという。
映画を観ると、ああこりゃ死んで当然だと思う。よくある若者の傲慢さ、それが招いた自業自得の顛末。
むかむかと、腹が立つ。なんでそんなにクソ真面目なんだお前は。なんでそんな簡単で大事なことに、もっと早く気づかないんだ。バカか。

そんなアホなクリスの短い人生を描いた『イントゥ・ザ・ワイルド』という映画を観ていて、涙が溢れ出てくるのを止められないのはなぜか。もうぐちゃぐちゃに泣かされた。言うまでもない、クリスの心がわかりすぎる位にわかるからである。
ここではないどこかへ行きたい。行かなくてはならない。親や恋人や友人、そんな大切な存在を置いてでも、自分には行くべき場所がある。誰にも止めることはできない。自分自身にも。そういう気持ちを、完遂できなかった立場の人間として、自分はこの映画を観るしかなかった。親や親族や、友人の立場から。ある意味では、自分の死を見つめるような気持ちですらあった。

大抵の人は完遂できないのだ。実際に行く、行くことを夢想する、そういった差はあれ、多くの人は生きて現世に戻って来る。それで良かった、という話になる。そうやって帰ってきた人のことも、自分はあまり好きではない。だって帰ってきてるのだ。あんなに大それた思いを抱いたのに、それじゃあ嘘つきじゃないか。そんな嘘つきが、なんでそんな平気な顔をしてられる?なあ、俺。

スクリーンに表れる、クリスの目にした様々な大自然の姿、これがとてつもなく厳しく、美しい。この世界にどうにも馴染めない、生きづらい、そんな摩擦を感じまくってる人は是非映画館で観てください。


ちょっと前のエントリで、
>『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、主人公の妄想パートをもっときらびやかに、いっそディズニーのごとく
>豪華にファンシーに描いて、凄惨な結末とのコントラストを付けるべきだった、という感想を持った
と書いた。多少なり映画を好む人には、「コイツ何言ってんだ」と思われるような意見だろう。
ラース・フォン・トリアーがああした悲惨なお話を取り上げたのは、別に普通に「かわいそう」なドラマを盛り上げようとしたわけではなく、もっと独特なストーリーへのアプローチを映画の構造の中に追求するにあたり、ああいうオーソドックスな悲劇こそがその凡庸性ゆえモチーフとして適している、という判断があったからである。たぶんそういうことになってる。でも、ダメなんだ。自分は、ひとつの劇を、感情移入することでしか消化することのできない、古いタイプの人間だ。たぶんバカなんだと思う。

だからこそ『イントゥ・ザ・ワイルド』の、クリスの家族や彼が旅で出会った人々のその後を描くシーン、とりわけ父親(母もだが、やはり父)が、舗道に身を投げ出して慟哭するシーンでは、涙をこらえることができなかった。生きて帰ってこられたかもしれない、もうひとつの世界。あり得たかもしれない、幸せを分かち合うことのできる世界。『プレッジ』のときも思ったのだが、ショーン・ペンはああいう感傷的な演出を避けて、もっと乾いた骨太な映画作りを心がけてください。心がハンマーで叩かれるような気がして、つらいです。

ということで腹が立ってしょうがない。こんな映画、もう二度と観ない。けっして、独りでは。
傑作だよチクショー!
Posted by LittKidd - 2008.10.08,Wed
きのうのエントリを書いたあと、布団で横になってるときに気づいたことなどをいくつか。

妻(キョンキョン)の出奔にはっきりとした理由が描かれていない、みたいなことを書いたが、それは他の人物、他の多くの場面にも当てはまることに気づいた。たかしが米軍に志願する理由もそうだし、津田寛治の夫婦が自殺した理由についてもそう。この二つに関しては、自分はそれなりの理由を推測して、というか解釈してそれでよしとした。なのに、なぜキョンキョンの場合においてはそれが出来ないのか。また、けんじがなぜ、バスでどこへ向かおうとしたのかについてもわからない、そのことには頓着するどころか気がつきもしなかった。なぜなのか。
そこを考えることが、自分がその映画と繋がっていくということなのかと思う。
そこを描かない、というのは完全に意図的な演出なのだろうし。
まあだからどうしたって話なんだけど。

他に気になったのが、たとえばけんじが街で家出中の同級生と出会い、少年の父親から共に逃げようとするシーン。公園の木の後ろに隠れ、喘息の発作に苦しむ同級生の薬の吸引を手伝う場面があるが、重なり合った子ども二人の姿にはどことなくエロチックな雰囲気が漂う。まるで、男女の逃避行劇(『ガルシアの首』とか。でも逃避行じゃないか)を観てるみたいな、少し後ろめたいものを観ているようなイメージ。まるで何かの引用のような。キョンキョンが観る白昼夢(たかしが帰ってきた)の場面にも、そういった手ざわりがある。「人を、殺しすぎたよ」と告解する兵士/息子の姿は、どこかの映画で観たベトナム帰りの帰還兵を思い出させやしないか。
それらが何かの引用であり、具体的な引用でなくとも何かを意味しているのだとしたら、役所広司のあの大げさな演技にも、やはり何かしらの意図はあるのだろう。海に出る、という行為/状態はあまりにも大きな意味を含むイメージの受け皿であるので、そういう可能性に思いが至らなかったのかもしれない。次に観るときはもう少しちゃんと考えてみたい。
まあだからどうしたって話なんだけど。
Posted by LittKidd - 2008.10.07,Tue
友人に勧められて『トウキョウソナタ』を観てきた。有楽町シネカノン。有楽町線から地下で直結(1〜6Fはビックカメラ、7・8Fが映画館)していてアクセスが容易。いつも行ってる池袋の劇場とは違って、すごくシックというか、上品だ。キレイだし、客層も違う(そりゃそうだ)。上映のことをよくわかってなくて言ってますが、池袋の劇場で、予告編の後、本編が始まるときにスクリーンのピントを合わせ直すのを見たことがない。もうそういう(デジタル上映とかそういった)システムなのかな、と思ってたらシネカノンではやってた。ロールチェンジの時もやってたから、そうだろう。先日の『ウォンテッド』ではあんまりピンがボケてるので、本編が始まって間もなく係の人に言いに行った。自信はないがたぶん改善されてたと思う。

感想としては、面白かった。ここまで「物語」に入り込んだ映画は久しぶり。それが一番良い観方だとは思えないながら、家族それぞれの抱えた、それぞれの悩みに共感しながら観てしまった。ただ、このそれぞれの悩みは本当にそれぞれ個人的で、それが「家族の悩み」には決してならない、というところが非常に現代的だと思った。思って観ていたのだが、ラストを観て、あーこの家族はこれから「家族の悩み」を抱えてくことになるのかしら、と思い直すことになった。さらっとだけ後述します。

まずは冒頭、開け放したサッシから雨が降り込む、あのシーンが良かった。急いで床を拭き、サッシを閉めかけ、空を見上げるお母さん。鈍い光、不吉な強い風が吹いている。この家に対する脅威を、たしかにこれから守ろうとするのがお母さんだ。その暗示、暗い雰囲気に、映画にスッと馴染んでいくことが出来る。

観ている間、僕はあの家族のお父さんになり、お母さんになり、たかし(長男)になりけんじ(次男)になっていた。特にお父さんのパート(楽章、と言っても。『ソナタ』は複数楽章から成る、らしいので)は、他人事でなくて困った。戯画化されてはいるが、あのハローワークに並ぶときの気持ち、あれを思い出させてくれただけで、いやいい映画観たなあ、と思える感じだ。あのね、もう本当に不安なんですよ。色んな人がいて、自分より遙かに身なりの良い人、てきぱきしてなんでも出来そうな人が、しかし疲れた顔して相談員と話したり、浮かない表情でモニタを見つめたりしているのって。だから前半しつこく職安が出てくるの、けっこう楽しかったです。炊き出しに並んだまでの経験はないし、何より今、俺は職安に行かなくても明日を過ごせる身だ、と思えたので。ヤバい人を見て、そうじゃない自分に胸をなで下ろす。まあそう思えるくらい、香川照之の困り顔がリアルだったという評価でもある。津田寛治とのやりとりは、運動神経のいいもん同士のハイレベルな芝居合戦、というにおいがちょっとだけして若干いやらしい。でもあのお呼ばれしての食事のシーンは良かったなあ。娘が不気味で、幽霊みたい。あの家族はだから失敗例というか、ソナタを奏で続けられなかった、サバイヴできなかったものの象徴なんだろう。それはけっこうリアルだと思う。実際、職がなかったらどうやって食べてくの?という問いは、できれば直面したくない感じにとてもリアルだ。結局、失業中に息子が「ピアノ」とか言い出したら「とんでもない」って自分も思うだろう。

他は、これも自信ないのだけど長男たかしパートの、アメリカの軍隊に日本人が制度的に(国内募集を行った上で、まとめて)入隊する、というやつ。あんなシステム実際にはないよね?! いやあったらごめんだけど、ないんだとしたら、それを思いついた事がすげえなと思って。逆(?)海外青年協力隊。まあでも現代の日本を舞台に、SFでなしに戦争を持ち込もうと思ったら、米軍を持ってくるしかないのかも。自衛隊派兵のことなどを考えると、作品の設定でそうなったのも必然的な流れかもしれない。ただ、米軍に入りたい、というたかしの心境は理解できず。映画がその辺を描いてないからか、単に自分にそういう考え方ができない(歳やそもそもの偏屈さで)だけなのかが自分的には微妙。

次男けんじのパート、心が苦しい。もう思い出すだけで泣きそう。あの子ども、顔がいい。ほんのり香川に似てるし。所在なげな感じが野生動物の子どものようだ。あと井川遥がめっさキレイ。

お母さんのパート、キョンキョンの抑えた演技が、割とというかなり良かった。映画で観るのはたぶん『怪盗ルビィ』以来なのだが、いい「おばさん」になったなあと思う。あんなきれいなおばさんは現実にはほとんどいないのだが、映画で観ると「おばさんであること」にちゃんと違和感がない。それが女優というものの能力なんだろう。それが前半。で後半で思ったのですが、役所広司、必要か?別に嫌いな役者ではないのだが、キョンキョンがお母さんである自分を見つめ直すために、あの強盗が必要だったかを考えると、ちょっと疑問に思えてしまう。ひとつには、「役所のためのシナリオ」に見えてしょうがない、ということ。もうひとつは、シナリオ上、ちょっと分かり易すぎる「装置」なのじゃないかという不信が拭えないこと。絶対わざとだとは思うが、演技が過剰。つられてキョンキョンも舞台調に。「俺には何にも見えない!」と海の彼方に絶叫するに至り、セリフも含めたなんつーか演劇っぽいあの空気が自分の中ではけっこう気まずかったです。劇的が悪い、という事じゃない。劇的であることが、流れ上あそこで必要だ、ということはわかるのです。ただその劇的への、持って行き方が強引じゃないだろうか。シナリオの上での、「うわべの」クライマックスであるあの場面で、夫と妻が、カットバックで「やり直したい」「どうしたら」「やり直せたら、どんなにいいだろう」と同じ思いを口にするじゃないですか。単にあそこを違和感なく用意するための地ならしとして、のだけのために役所広司の過剰さがあったのだとしたら、それは何というか、ちょっとズルくねえかと。

なぜなら夫と妻の「やり直したい」というセリフに、いかにリアリティを込めるか、というところがこのシナリオの肝(のひとつ)になってくるはずだから。単に役者がセリフを言って、そのムードと力強さで納得させちゃう、という手法はこの映画にはふさわしくないように思える。『トウキョウソナタ』のキョンキョン演じるお母さんがなぜそこまで、「目が覚めたらまったく人生だったら、どんなに素敵かしら」とまで絶望しているか、その思いがどこまで深いのか、は今のところちょっと伝わらないのだ。その感情の表出が唐突だし、役所の出す空気が濃すぎて邪魔している。

適当な例かがわからないが(またよくある話なのかもしれないが)、30年以上連れ添ったある一組の夫婦が、かなり真剣な別れ話になった時、その場に居合わせたことがある。妻の方が言うには、ずっと、宝くじを買うのを楽しみにしていたと。当たらないかもしれないけど、買わなきゃ当たらないし、買い続けて当たりが出たら、そのお金でやっと、あなたと別れられる。そう思って私は宝くじを買い続けていました、と。その重さ。ずしーんと来ない?僕はこの話にずしーんと来るのだが、キョンキョンと香川の表明する「やり直せたら」にはここまでの重さとリアリティはない。

まあでもそうした種類のリアリティは必要ではなかったのかもしれない。浪花節のようになってしまってもつまらないし。ただ彼と彼女のそうした実存的な苦しみに、もう少しいくらかの具体性があれば、あの、エピローグに見せかけて「本当の意味での」クライマックスだった、けんじのピアノのシーンがより輝いたのではないかと思ってしまった。そう、あそこ!別に盛り上がるところではないのだろうが、本当に美しい。陽の光が床を照らす、あの空間に、音楽が満ちてゆく。はっきり言ってしまえば、あそこでは「希望」というものがまさに生まれていて、そのことにあの場の全員が深く納得しているのだ。そこに、この映画ではじめての「祝祭」が描かれている。

この家族が、これから「家族の悩み」を抱えてくことになる、と思ったのはここを見て。以下は、たぶんこの映画自体とは全く関係のない僕の妄想です。いとこ3人が音楽学校に通っていたのを傍目で見ていたからわかるのだが、単純な話、音楽の勉強はちょっとはんぱなくお金がかかる。クラシックの素養を持つのが良家の子女であることが多いのは、別にその家の趣味がそうだから、というだけの話ではない。その額はお父さんが派遣の掃除員程度でまかなえるものじゃないし、お母さんもパートに出なくてはいけなくなるだろう。場合によっては家を手放すこともあるだろう。生きて帰ってきた兄ちゃんは、弟中心の家族の姿に面食らうだろう。まあつまりは金だ。そういう形而下的なものに悩まされ、でも家族で支え合おう、というかっこ悪いものなのだ。家族というものは。そこに向かっていくと、ドラマは美しくはなくなる。だから映画はその前の、(そういう、以降のかっこ悪い日常を含む)希望の生まれた瞬間を提示して終わる。

タイトルにした「満たせる水の量」は、この映画に「入る」水の量が多い、ということが言いたかった。うまく言えなかったが、ようはフィクションとしての容量が大きい、そして強度が高い、そういう作品ほど、こちらの心に浮かんだ思いや感情をたくさんすくってくれる、ということが言いたかったのです。
Posted by LittKidd - 2008.09.30,Tue
『アイアンマン』観てきました。以下ネタバレます。

メカの天才で、紛争・戦争が飯の種、な世界的軍事企業の二代目CEO。自家用ジェットで自家用CAが高度1万メートルのポールダンス。美女を日替わりでハベらす、いやらしいヒゲ面の中年男が、程よく冷えたスコッチかなんかを口に含んでニヤリ、自慢の新兵器について得意げにひと言。後にガラリと改心、兵器の生産を中止するも、その理由にシナリオ上しょうがなく、という以上の説得力はなし。劇中でも指摘されるように、改心の末に作ったのが「最強の兵器」、という自家中毒性を省みず、「世界の警察」気取りで自ら他国のいざこざに首を突っ込んでゆく姿は、ある意味でブッシュ政権そのまま。テロリストを過剰悪として単純化、一元的にしか描かない一方で、自社兵器がそれまでに奪った命のことなどまったく意に介さず、「ヒーローは、私だ」と声高らかに宣言するトニー・スタークは、余りにもアメリカ的な「スーパーヒーロー」である。

と、そういう風にも書けてしまうのだけど。

正直、『アイアンマン』面白かった。スマップが「最高!あのスーツ着たい!」って興奮してたのは確かに頷ける。稲垣メンバーに同調?超ありえねんだけど!とか思いつつ、いざ映画が始まりますと…ヤベスゲオモレ!とまあ少年のような瞳で観てたと思いますねスクリーンを。俺もあのスーツ着たいよ!
いわゆるヒーローらしさ、から遠いトニーの風貌やキャラクターも、アフガンでスタートというリベラルを敵に回しそうなリスキーな発祥も、映画の達成度を上げるための発射台だった気がします。そこにまんまとハマった俺。完全にうまいこと転がされたと思う。だってハルクよりダークナイトよりハンコック(これは別物だけど)より、アイアンマンが一番「ヒーローらし」かったんだもの。

金持ちでプレイボーイでいいかげん、そんな男にヒーローの資質なんてまったくない。だからこそブルース・ウェインはそういう男を演じてるわけです。そんな、主人公としちゃこれより下がりようがない、という所から始まって、致命的な弱点を抱え込んでこの世に帰還するまでの過程で、メカを自作、男の戦いと友情、怒りの復讐、というポイントを着々と踏んでくるトニー。その後の、ヒーローとしての自覚を表明し、黙々と開発に打ち込む姿はストイックだし、あの時間をかけて試行錯誤してる感じもちょっとリアルでかっこいい。両手両足での制御がムズそうだな、とか思ってたらプロトの何倍もスマートなマーク2が出てきて、それもあっさり3にとって代わり、いやもう最強じゃん、あんなテロリスト達なんか逆立ちしても敵わないでしょ、と思ったところで、村の略奪の阻止に向かう。ここでもう、対国外・国内共に、非公式にだが「正義ですよ」というひとつの了解を得てしまう。アフガン市民や合衆国パイロットの命を救うヒーローなわけだから。

直後、ちっさい敵が大きな敵にたやすく吸収されて、なるほどと思った。アフガンとかテロリスト云々という部分は関係なくなり、お話はトニー・スタークとあいつの因縁に絞られていくのである。もちろん、あいつを倒すことが世界平和の為なのだ、という大義はしっかりとある。新たにデザインされた敵役のソレは、メカメカしくも禍々しくもありカッコイイ。でかくて素早くて強そう!怖ええ!この相手のデキの良さは、ハルクと比較しても明らかだった。やっぱ敵が強くないと、戦士としてのヒーローが引き立たない。グィネス・パルトロウには簡単に手を出さない、そしてまた彼女の献身が母親チックなあたりまでを含めて、この監督は「男の子のくすぐり方」をわかっている。

じゃあそうした一種の正当化をわかった上でなおかつ『アイアンマン』を面白かった、好き、と思うのはなぜか。
反語のように聞こえるかも知れないが、それはこの映画が「力による正義」を明快に肯定しているからだ。
たとえばダークナイトでは、ジョーカーの居場所を探るためにあらゆる市民の通信を傍受する描写が話題となった。他にも9.11以降をなぞらえたととれる部分は多く、このシークエンスが一種の論議を呼ぶことは監督も承知の上だっただろう。でも、あえてその場面を入れた。
『アイアンマン』はシリアスさにおいてはダークナイトには及ばない作品だが、もっと軽やかにそれと同じことをやってのけている。つまり、「力による正義の行使」だ。自分のまいた種(兵器)で殺される人がいるとしたら、力ずく(新しい兵器)でそれを止めなければならない。何が正義か、はアイアンマンその人によって判別される。なぜなら、それが必要とされているからだ。
つまり、それが「ヒーローにできること」なのだ。自分の頭で敵か味方かを判断して、自分の家族や国の平和を守るため、戦う。最初に述べたように、余りにアメリカ的な姿とも言えるが、今そこで危機に瀕している命を救う、そのためにこそ、ヒーローは存在する。それが出来る特別な存在が「ヒーロー」と呼ばれるものであり、彼らと彼らの強さにあこがれを感じる我々がいる、ということ。SBRのリンゴォ・ロードアゲインの言う『男の世界』にも通じるものがそこにはある。

つきつめてゆけば、「正義」はすごく抽象的な概念でしかない。「治安」や「平和」のイメージには一定の具体性があるが、それを守るのは警察や法律といった人間社会のシステムだ。だが、そうしたシステムで対抗し得ない悪者や、危機が訪れたとき、人は何に救いを求めればいいだろう?繰り返すが、そのためにこそヒーローという存在がある。しかしその「正義」は実は危険なものではないのか?という問いが、常にそこにはつきまとう。その危ういバランスこそがヒーローの醍醐味の一つであり、「大いなる力には大いなる責任が伴う」といった意識も生まれるのであって。
だからトニスタがあっさりと「私がアイアンマンだ」と認めるのは、その責任を引き受けた、ということの表明なんだと思う。まあ原作でそうなんだと言われればそれまでですが、ダークナイトへの返答ともとれるんじゃないか。別な責任の引き受け方があるんだよ、という。「私がアイアンマンだ」のセリフとともに、記者達がフィーバーするじゃないですか。あれは「特ダネだー」という意味の他に、アメリカ人として「よく言った!」という喝采が入っているんじゃないかという気がする。

だから『アイアンマン』は、正しくはこれからもっとヒーローらしくなるはず、なヒーローだ。
ハルクの感想で続編に対して否定的な意見を書いたけど、アイアンマンのその後を観たいがために、今はアベンジャーズにメチャメチャ期待してしまっています。
Posted by LittKidd - 2008.09.26,Fri
今こそギャルになりたい。

ギャルになってネイルとか携帯とかデコりたい。そんでデコったネイルやiPodなんかを友達のギャルに見せて、できるだけホメてもらう。ちょ〜かわいんじゃね!!とかってホメてもらう。ヤバいって!ヤバいって!みたいな感じでよく分からないけどアゲアゲにしてもらう。ラインストーンをちまちま貼っている間とか楽しそうだし、今、他に楽しそうなことってほとんど思いつかない。釣りとかどうかな。楽しいのかな。釣り竿もデコる。デコ竿だ。鮎の友釣りなんかに出かけるんだけど、竿の持ち手にズラリ並んだスワロフスキーがキラキラ光って、川面に乱反射しまくり。周りの釣り師もハッキリ言って迷惑がってる。でも俺はギャルだから、誰も叱ってこない。なんで誰も叱ってこないの?リサ、ほんとはさびしいんだよ!鮎って、スイカのにおいがするんだね…リサはじめて知った…そんなリサの気持ちとは裏腹に、四万十川の夏の夕べはただ暮れてゆくばかりで…

新文芸座で成瀬巳喜男の特集上映観てきました。『驟雨』『妻』の二本立て。
『驟雨』が岸田國士原作の原節子で、『妻』が林芙美子原作の高峰三枝子。成瀬巳喜男を観るのも原節子を観るのも新文芸座に行くのも初めてです。新文芸座はパチンコ屋の三階とは思えないほど静かでキレイな映画館でした。

どちらも子どものない夫婦の話なので、いきおい比較するように観てしまう。戯曲原作のせいか、『驟雨』のほうは登場人物もロケーションも少なく、お話自体、いたってシンプル。夫と妻、二人がメインのお芝居のような印象です。描かれている情景は所帯じみた日常そのもので、妻がエサを与えている野良犬が鶏を殺すのがご近所で問題になったり、旦那の会社が別の会社に合併され社員の整理を行う、というので自主退社を募ったり、隣に越してきた夫婦を媒介に主人公夫婦のすれ違いが浮き彫りになったり、といった波風はあるものの、平和と言えば平和な世界で、世間からのダメージを凌ぎきれない疲れたダンナをツマが鼓舞する、という話。そういう現実味タップリなエピソードの連続であるのに、どこかふわっとした、明るくて軽い書き割りみたいな空気をイメージさせるのは、やっぱり原節子の顔が原因だと思います。初めて観た、と言ったはしからこう言うのもまたなんなのですが、原節子、やばいですね。なんか美人ともカワイイとも思えないのに、あのいじけ顔、ポカン顔、笑顔にいつのまにか見とれてしまう。あの汚れてなさはなんなんだ。別にいわゆるピュアとか純粋っていうことではなく、汚れに強い顔っていうか抗菌顔っていうかそういう機能なの?というくらいに異質です。非現実感、と形容したいような光。すごい不思議な人だったなあ。ラストシーンの紙風船がとても美しい。夫婦の間を行ったり来たりして、メタファーとしてすごくわかりやすいのだけど、そうした比喩だとか意味だとかを超えてただすごく美しい。原節子という存在に照らされた、旦那の疲れた顔も印象的でした。

『妻』の方はよりメロドラマ的というか、登場人物も多く、その相関図がより社会とか現実との繋がりを感じさせます。ポップな家庭劇、という感じで話の起伏も多いし、メインの事件たる旦那の不倫も、ほんとによくある話でリアリティたっぷり。50年前でも、生々しいものは生々しいなあ、という印象で身につまされます。夫婦の家に下宿するのが銀座のホステスだったり貧乏な画学生(三國連太郎)だったり、主婦だけでなく未亡人や女学生、未婚の働く女性、というふうに色々な層の女性を出していることからも、当時の社会の(東京の)縮図(あるいは反映)たらん、という意図を感じる。横光利一が新聞に連載していた、『家族会議』というやはり家族と恋愛をテーマにした通俗小説、といっていいのかよくわからないけどとにかく俗な小説があるのですが、それに少し雰囲気が似ていたなあ。賑やかなのですが、映画としては『驟雨』よりも格下だなあと思いました。同じ男と女をめぐる問題でも、描き方とキャストによってこんなに違うのか!というか。原節子と高峰三枝子が好対照過ぎるのかな。高峰三枝子がものをもらって見せる嬉しそうな顔、これがほんとに嬉しそうで…観ていて若干うんざりするほどです。でも面白かったけど。

というわけで成瀬演出のすごさ、ということに関してはよくわからなかった!勉強します(己のデコり方を)!
Posted by LittKidd - 2008.09.23,Tue
下品で粗暴で血みどろで節操がなくて願望充足的で荒唐無稽でカッコ良くてためにならなくて最高!

今年観た中で一番面白かったです。
みじめでしみったれた文化的・社会的負け犬人生のそのまた裏路地をひた走る俺みたいなモンの精神構造にぴったりフィットする痛快ウキウキ映画!カユいところに手の届く仕様になっております。全ての男の子は年齢に(勝ち負けにも)関係なくコレを観に行くべき。でもカップルで観に行っても大丈夫。ていうか客層は八割方カップル。

極端なCGとかケレンな演出が話題だしウリであることは事実なのですが、この映画の一番いいところは、分かりやすさ。話の流れもそうだし、そのときその状況での人物の心情が分かりやすくそしてブレない!ので、安心してアクションに集中できる。あと場面々々の時間配分がすごく良くて、たとえば修行のパートが短すぎると「大丈夫?!主人公ほんとに強くなった?」って心配になったりもしますが、『ウォンテッド』にはそれがない。むしろそっちがメインとばかりに、アイツがたっぷりと痛めつけられます。「えっ?ボクにそんな能力が?!」から始まって、血と痛みの量がそのまま強さになる、という「ある種の神話」をよ―くわかっていらっしゃる。しかも鬼教官はあのアンジェリーナ・ジョリーですよ!ああもうなにをかいわんや!いわんや!いわんやァアア!

そうした基本的な部分での足腰がやっぱり大事です(落ち着いた)。あと戦闘のシーンも色んな見せ方が考えられていて、楽しい。まぁマンガ的といえばマンガ的だけど、すごい物量なのに徹底して飽きさせないドンパチ、というのは誰にでもできることじゃないと思うね。『デイウォッチ』『ナイトウォッチ』を観たくなりました。

さあ、君も手近なキーボードを手にとってオフィスの外に出よう!
Posted by LittKidd - 2008.09.23,Tue
CMを見るたび「あっパコだっ!あっパコだっ!」とうるさいので、ムスメ連れで近くのシネコンへ。

面白かったけど、子ども向きというよりは若者むきだった。おしゃれなキャストと怒濤のギャグの連続で、テンポ良く楽しく観られるっちゃ観られる。途中何度かホロリともさせられました。でもまああれはするよホロリ、ドラマツルギーが優れてるとかそういう理由じゃなく。だって可哀想なんだもの。その違いは何なんだと聞かれると困るけど、ようはあまりお話に工夫があるわけではないのです。すごく新しいところのない、というか、(多分いい意味で)古典的なスタンダードなお伽話がベースになってて、そこを複雑にすることを止めているというか。

ただ実際今の日本でファンタジーぽいものを、となるとこういうものになってしまうのかなあとも思った。登場人物のそれぞれのエピソードを、より深くよりリアルに描けば、そうしたなりの現代性とか批評性とか、もっとリアルな物語性とかが生まれてはくるのだろう。でもそうして生まれたドロドロの「リアル」は、この映画の一番言いたかった、シンプルな結論の輝きをきっと邪魔してしまう、という判断があったのじゃないかという気がする。深く突っ込まないことで、逆に見えてくるものもある、というスタンス。あと、そこまでの時間はない、というスタンスでもあるかも。

一人の人間の一生を、それこそ重箱の隅をつつくようにこってりとしつこいくらいリアルに描いたのが、同じ監督の前作『嫌われ松子の一生』と言えるだろう。DVとか殺人とかヤクザとかソープとか木造アパートの独居老人とか、そういう日本の下層社会を構成するアイコンをこれでもかと詰め込み、しかしその外側を甘く可憐で、キュートかつポップなミュージカルという衣でコミカルにラッピングした不思議な演出は、すごく面白くて(世間の評価は知らないけど)「こんなの初めて観る!」と興奮したものだった。画面はものすごくキレイなのに、その中では恐ろしくエゲツないことがおこなわれている、というそのギャップと、最期まで救われない、何にも昇華されない、やられっぱなしの松子の人生。そこに泣いた。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、主人公の妄想パートをもっときらびやかに、いっそディズニーのごとく豪華にファンシーに描いて、凄惨な結末とのコントラストを付けるべきだった、という感想を持った自分にとって、だから『松子』はすごく腑に落ちる映画だったのだ。

なので、今回のある意味ではお手軽な作りには、ん〜という感じを抱いてしまう。でもまあ観てなくて言うのもなんだけど、『どろろ』よりは面白いんじゃないか。ファンタジーとして。そんな『パコ』というお伽噺が、最終的に言いたかった結論とは。(多分だけど)「命を大事にしなさい。今という時間を大事に生きなさい」ということだ、きっと。ほら、工夫がないでしょう。正しいんだろうけど、やっぱり今さらという気もする。でもつまらなくはなかった…そんな煮え切らない感想。

あ、土屋アンナのナースの設定は良かった。同監督『下妻物語』以降、土屋アンナのヤンキー人気が浜崎あゆみを抜いてトップに、という結果のアンケートがあったことを思い出す。元々の彼女のキャラクターなのかもしれないが、docomoのCMでも下町の元ヤンを好演してたし、『下妻』の作ったイメージの影響は少なからずあるだろう。日本は今でもオタクとヤンキーの国だと思う。萌えとガンダムとディズニーとサンリオ。そんな日本のヤンキーの嗜好を変えた、そういう意味でも中島哲也は凄い映画監督だと思う。
Posted by LittKidd - 2008.09.21,Sun
映画に関しては、まだまだ「見る」にはなれない俺です。なので「観る」表記。
「観」という漢字は、「手」をかざして「見」るという成り立ちになってる。と、昔学校で習った気がします。つまり気分的には遠いとこ眺めてるような、いわば物見遊山なわけで、映画はやっぱりイベントだ。日常と同じく見る、という境地には程遠いなあ。そういう風になりたい、とは思わないでもないケド…さすがにおこがましいや。

監督、ショーン・ペン。舞台となるアメリカネヴァダ州は乾ききった砂漠、といった印象が強いのだが、本作の画面はなんというかとてもウェットで、優しい。音楽の使い方もちょっとどうかと思うくらいソフトリーで、それにはもう最初のシーンから違和感があるほど。だがそれゆえに、終盤にかけての展開はとても恐ろしい。この映画は「いい人」なのか?「悪い人」なのか?変な言い方だが、演出をどう信じたらいいのか、迷いながら観ることになってしまう。

ジャック・ニコルソン演じる主人公ブラックにも同じことが言える。最終的に彼の意図することとなったプランに、彼自身はどこまで、どの辺りから自覚的だったのか?そもそもの彼の疑念が妄想でない、という証左は?「約束」とクリシーとを秤にかける葛藤の中で、何を考えていたのか?必然、観客が気にするであろうそのへんと、「結局何がどうであったか」という事実関係をぼやかし、にじませて曖昧にした。意図的な演出だろう。ほとんどすべてが霧の向こう側のように曖昧な中で、主人公の激しい失意と、悔やみきれない無念だけがくっきりと浮かび上がるラスト。ニコルソンの演技には凄みを感じた。彼のハゲは非常に雄弁だ。初老にさしかかった男の、かつての生命力を「今まさに失いつつある」、どっちにも転びそうなボーダーラインな感じのハゲ。あのまばらな毛が風に揺れる感じは、なかなか出せないと思う。いやマジで。

や、違うな。この映画で、主人公は転がり落ちたんだ。
一人の男が、いかにしてその力を失うことになったか、尊敬される社会のOB的存在から、モーロクした、誰にも相手にされない独居老人に変貌したのか、というその過程を描いた映画。警察というかつての同僚達の信頼だけではない、ブラックは、最終的に「男」であることも「父」であることも「手放して」しまった。それを「もぎ取られた」とは言えないのではないか、という所に、この物語の悲劇はあるのだろう。

別の映画のDVDの冒頭で流れた予告編の中に、この『プレッジ』があった。それを観たとき、なぜか「これは俺の映画だ」と思って即座にビデオ屋さんで借りてきた。でもやはりなぜか観ずに、それから5年近くが経ち、「夫」となり「父」となった今、こうして初めてこの映画を観た。より主人公に近い立場になったわけだけど、観終わって「俺の映画」だ、とは思わなかった。独身で子どもなんか影もカタチもないときに観てたらどう思ったか、はもはや分からない。立場は物の見方を規定するか?というテストには良い試金石だったかもしれない。そう思うと惜しいなあ。

チョイ役で、ハリー・ディーン・スタントン!が出てましたね。老けた…かなあ?よくわかんないやこの人。
久しぶりに『パリ、テキサス』が観たくなりました。
Posted by LittKidd - 2008.09.16,Tue
本が買えないから、というわけではないけど中原昌也目当てでDVDをレンタル。

つ・つまらん…。脚本、というかセリフと、それを実際に口にする役者の力との間にものすごく隔たりがあるように感じられる。監督の頭の中と画面のギャップはどれくらいなんだろう。目当てで観といて何だが、中原は(筒井康隆も)本当にヒドかったなあ。演技者としての「上手さ」を求めるのは間違いだ、というのはわかってるけど、あのヒドさには笑った。海辺のライブのシーンで見せる笑顔や「死ね!」の捨てゼリフが人懐こくて素敵。

映画上級者向け映画とはこういうモノか。そんな感想です。
あとなんか宮崎あおいを大事にしすぎてる。そんな印象です。
Posted by LittKidd - 2008.09.15,Mon

Little Girl Giant Plays in the Park from XINERGY on Vimeo.

ほっぺの蛇腹も愛らしい。なんか学校でのこの子とか夏休みの絵日記を付けてるこの子とか、親戚の法事で田舎に来たはいいけど同じ年頃の子どももいなくてつまんないから雑木林をぶらぶらしてるだけのこの子とかまで想像できてしまう。でっかい蛙に驚いて帰って来ちゃったりして。どういうプロジェクトなのか知らないけど、一度間近で見てみたいなあ。まるで「映画」みたい、という印象を持った。
Posted by LittKidd - 2008.09.12,Fri
詳しいことはまあいいや。なんだこの企画モノ?という印象でしかなかったTOKYO!という映画に、がっつりやられました。えーっと公開して相当経ってます(今日のお客さんは俺含め6人でした)けど一応、以下ネタバレ


◎『インテリア・デザイン』/〈監督〉ミシェル・ゴンドリー
素晴らしい。『式日』を観て以降、藤谷文子はイイ女だよ!と会う人ごとに言っていた時期があるのですが、ほとんど賛同は得られなかった。大体の人が「キモい」って言ってた。いやでもこの『インテリア・デザイン』の藤谷はイイでしょう?こんな役できる日本人あんまいないと思う。栗山千明じゃキレイすぎるし菊池凛子だと鋭すぎる。このメタモルフォーゼには、ある種のニブさが必要。彼女は居場所を失うことで、ある意味で一番自分に必要な能力を獲得できたわけですが、それは意図的なものというよりは、野性的・本能的な選択のセンスの選択の結果なのであり、そこに文明の明るさといったものはない。あの椅子の野暮ったらしさ!たるんだ曲線!あれこそまさに藤谷です。ゴンドリーお得意のクラフト世界にも、加瀬亮とコミですごく相性が良い。あと伊藤歩の軽い存在感がすごくエロくていいです。とても外国人の撮った映画に思えない、のは勘のいい役者ばかりが出てたせいか、貧乏くさいロケ地(ホメてます)のせいか。

◎『メルド』/〈監督〉レオス・カラックス
素晴らしい。えっと何から書こう。とりあえず観れて、幸せ。カラックスがそうとは言えなくても、ドニ・ラヴァンはやっぱり確実に俺のヒーロー。あの歩き方、身振り、絶対に意思の疎通とか出来なそうなあの感じ、年はとってもドニ以外の何者でもないことを実感。あのハゲ、自前かな…?あの包茎は、自前だよな…話自体は完全にデタラメ。よくぞやってくれた!ってもう心から拍手を贈りたいくらいにフザけてます。もうね、だから、人を、世の中をナメてもいいんだよな。それはそういう「ナメる」っていう特殊能力であって、そのちから一つで世界にケンカを売り続けてるわけです、レオス・カラックスは。そこが素晴らしいし、その有りように感動する。もうね、俺も仕事やめる。唾吐いて、ベビーカーに煙草をポイ捨てですよ。破壊ですよ破壊。まあやんねえけど。トホホ。あとはドニ・ラヴァンと嶋田久作が同じ画面にいる、というだけで頭がクラクラします。なんだよこれ。たまらないバカバカしさ。あと通訳の女の子がメチャカワイイんだけど誰?もッもしや…と思って調べてみたら、ビンゴォオオオ!!! 荒木経惟の愛人にしてミューズ、KaoRiさんじゃないですかー!てか俺も最近コレで知ったばっかなんですけど、もうこの人がエロいのエロくないのって、今一番どエロい(個人的に)人はぜったいコレ。老人とか中学生なら卒倒しそうなエロい顔(あくまで個人的に)に、掟破りのあのアニメ声!!!!!! まさかー!! オヴェエエエ(xдx;)!!!!!! こうふんしすぎた。できればジュリー・ドレフュスにはご遠慮願いたかったなあ。3年後に通訳辞めてるとかそんなリアルっぽい感じは今さら要らないじゃん!あの娘が絞首刑を実況してる方が絶対勃つのに…そこだけが不満。

◎『シェイキング東京』/〈監督〉ポン・ジュノ
素晴らしい。香川照之も蒼井優も竹中直人も荒川良々も嫌いなのに、すげえ満足してしまいました。まずなんで嫌いかっつうと、なんか顔が濃いから。顔が濃い人が、昔から苦手なんです。怖くて。でも恥ずかしながら、映画で初めて拝見した香川照之の顔は、すごく良かった!友人が、「顔で笑わせてるからアレはズルい」と言ってたけど、確かに。人の顔であんなに笑ったのは久しぶり。また観たい。香川照之のあの顔を。とりあえず『ゆれる』とか観ようかな。蒼井優は濃くないけど、勝手に宮崎あおいとかぶるからという理由で嫌ってた、のですが…もうダメ。我慢できない。藤谷とかKaoRiとか文化っぽいこと言いながら、結局のところTOKYO!で一番寝たい女は蒼井優です!だってピザの宅配にショートパンツにガーターですよ。ボタン/スイッチ対応で何でもアリの女の子ですよ。欲望充足の権化ですよ。『恋に落ちていく男女の激しい心の揺れを視覚的にとらえた東京を通して描く、珠玉のラブストーリー。』ってのがオフィシャルの作品紹介だけど、10年以上ぶりに女の肌に触れて、性欲のスイッチ入った引きこもり男が、必死の思いで(やりたい一心で)外の世界に怯えながら出て行った、というとこに本当の感動があるわけです。家の外に出たら、その外観は…というあのシーンでは、久しぶりに映像で鳥肌が立ちました。それぐらい美しかった。映像はみっつの中で一番好みだったなあ。ああいう濡れた感じは、大体の場合いやらしい感じにしかならないって思ってたけど…透明感に溢れてるので、一見爽やかな映画だと勘違いしそうになる。撮影は日本人なんだね。しかしポン・ジュノって監督、ちょっとすごいんじゃねえか。ていうことでいい加減にグエムルを観たいと思います。


いろんな所をひっくり返された映画でした。むしろまんぐり返された。映画って面白いね。
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