忍者ブログ
[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7
Posted by - 2017.05.30,Tue
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

Posted by LittKidd - 2008.12.16,Tue
仕事帰りにウォーリー二回目(吹替版)。
レッドクリフかトロピックサンダーかダイアリーオブザデッドにしようと思ってたのだが、つい…
子どもと行こうかと思ってたんだけど待ちきれなくて…

けっこう他にもいろんなとこを間違えて覚えてた。天の川じゃなくて土星(たぶん)の環だった、とか。
“ W A L L ・ E " の正式名称(“Waste Allocation Load Lifter Earth-Class")はウォーリーの家に書いてあった。

声はまったく違和感なしでした。というかむしろ吹替の方が楽しめたかも!アニメはそういうこと多いよね。芸能人枠では、艦長役で意外なあの人が。なぜ?て感じですが、ナシではなかったです。それ以外は普通に声優さんだったんじゃないかと。ごめんなさいエンドロール見てたんだけどよくわかんない。ていうか声だけでなく、一部の案内板とかも日本語表記になってます(冒頭のウォーリーの看板『私たちが地球をお掃除します』とか、モーの視界表示『外来汚染物質』とか)。これってピクサーはいつもそうなの?各国バージョンあんのかな…そういうとこにコストかけてるわけね。

空から美少女が降ってくる話じゃんって聞くと、まーたしかにね、とか思いつつも、そこに注目なの?このエロゲ脳!って反感がなくもない。でもまあ人それぞれだしな。
PR
Posted by LittKidd - 2008.12.13,Sat
Mr.インクレディブル、久しぶりに観た。面白いなあ。この監督やっぱすごい。
『レミー』を観てないことを反省…
そしてついさっき、『ウォーリー』に関して自分のエントリで言ってたことが間違いなのを確認!
ウィキペディア
にて☆ WALL-B〜Dなんていないみたいで〜っす。

インクレディブルを観てて強く感じたのは、ウォーリーってやっぱりアンチヒロイズムな映画なんだな、ということ。それが意図的なものか結果的にそうなったものなのかは分からないけど、一緒に観終わった友人がほとんど開口一番でもらしたように、ウォーリーががっつり大活躍、ていう映画ではないのだ。この『ウォーリー』には、本当にヒーローがいない。いやまあしいて言えばそれはウォーリーであり艦長でありイヴなんだろうけど、その功績は巧妙に分担され、状況打破のカタルシスみたいなものも、どっと盛り上がるというよりは、喜びとともにそっと示されるにとどまっている、ように思えてならない。なんかすごく優しいのだ。

つまり、悪の存在がないのじゃないか、と思った。たとえばスーパーマンのような強力な求心力を持った存在がすべきこと、それはもしやすると彼以上に強力で、しかも凶悪な敵を倒し、世界を救うことにある。だが『ウォーリー』においては、「地球に降りない」という選択は市民の命を脅かすものではけっしてないし、あの「舵」だってあくまでプログラムと市民の安全を守ろうとしただけだ。極論すれば、あそこで無理に地球に降りなくても、イブは次の機会に、また別の植物を見つけることができたかもしれないのである。いや、これは前のエントリでさんざん言ったように、『ウォーリー』の映画としての評価には何ら影響するものではない。この「悪の不在」は、むしろ『ウォーリー』以外の映画や、現在のアメリカを取り巻くヒーローブームにこそ、何かしらの考察のヒントを与えてくれるもののような気がしているのだが。

まー色んなヒーローが映画になった近年であった。多くはアメコミだし、やはり彼らが一番目立つ。ここですごく性急な物言いをすると、コミックにおけるブームがそうであったように、映画の舞台で活躍した彼らの中にも、「疲弊したヒーロー」が現れ始めたのは印象深い。まず流れをおさらいすると(記憶だけで振り返ってるのでとんでもない間違いをおかしてたらメンゴ)、おそらくはスパイダーマンの快進撃から始まり、X-メンでその炎が激化した。ファンタスティック4やデアデビルに、ヘルボーイといったミドルクラスが裾野を広げ、観てないけどゴースト・ライダーなんてマニア向けまでが表舞台に転がり出たりした。そしてついにあの男、スーパーマンが復活して、「ブーム」の刻印に太鼓判をダメ押し。他にもコンスタンティンや、記憶に新しいハルクやアイアンマンが、変わらず世の中を愉快にをかき回していた(冬の時代は、バットマンが一人でひっそりと支えていた)。

彼らはみんな(だいたい2時間以内で)自らの敵を破り、世界を破滅から救ってきた。だがそんな流れがいつまでもいつまでも続くわけはなく、ある日、これまでとは違った二つの異質な敵が現れた。振り返れば、それはまったくの必然だったのかもしれない。そのうちの一人は、『ダークナイト』のジョーカーだ。純粋悪、悪を超える悪、理解を拒み続ける突然変異(ミュータント)のような悪。その登場のタイミングは、ピークを迎えて燃え上がったヒーロー熱に何千ガロンもの冷水をブッかけるような、すばらしく効果的で目の覚めるようなものだった。「悩むと言えば俺でしょう」とばかりに、満を持して苦悩と葛藤に身を固くするバットマン。その悲壮な決意は、コミック『DKR』とまったく同じように、勧善懲悪だけじゃないヒーローの奥行きと広がり、リアリティとかセンシティビティといった新しい次元を切り拓いて見せたのだった。てかごめん、ハルクとアイアンマンはその後でした。でもその前にもう一人、「世界の外」から現れた敵、それが『ハンコック』だ。

『ダークナイト』がヒーローの内面を掘り下げ、その価値をいくらかでも深化させたのだとしたら、『ハンコック』はそこに内輪ウケですよ〜みたいな顔をしてやってきて、実は全くの外側から冷笑を浴びせかけたJOCKSのような映画だった。敵がいないどころか何百年も続く痴話ゲンカだったんですよ、というオチにもならないオチは、今思えば「ヒーロー映画」を徹底的にバカにしたものだったのだろう。最初からパロディです、という顔はしていなかった点でタチが悪いとも言える。ウィル・スミスだけはわりと真剣に「ヒーローをやろう」と思っていたことも、逆に事態をわかりにくくしていた。別に『ハンコック』自体に腹は立たない(腹が立つ程の映画でもない)のだが、「あ、こうゆうのもアリなんだ」とほかのJOCKSに気づかせちゃったんじゃないのか、という危惧はある。ああいう映画が今後雑草みたいに増えてはびこったらヤだな、というくらいのものではあるが。

そろそろ『ウォーリー』に戻ろう。正確にはヒーロー推進派でもアンチでもなく、「フラットに戻ろう」という映画だと思う。間違いなく「みんながそれぞれの役目(存在理由)を持ってるんだ」というメッセージを発している、言っちゃえば『世界にひとつだけの花』だ。『世界にひとつだけの花』は好きにはなれないけど、僕は『ウォーリー』のことは大好きだ。前のエントリにその理由は書いてある。ウォーリーが量産型である、ということはやはり非常に象徴的なことに思える。この論旨には、本来ならきっと9.11やイラク戦争も絡んできてしかるべきだろう。合衆国の住人でもなく、国際情勢にも疎い僕には語れないが、仮にもひとりのリーダーを戴いて臨んだ戦争が終わり、良いも悪いも含めてその意味とか意義が問われ語られ始める時期が、アメリカには来ているだろうから。いやもうすでにそういう議論は始まって久しいのだろう、実際の世間では。ただそれがフィクションの世界に本当の意味で浸透してくるのはこれからだと思う。そうじゃないだろうか?

アメリカでの公開時期はわりと近かったらしい『ダークナイト』(2008年7月18日)と『ウォーリー』(2008年6月27日)だが、そのベクトルは真逆だ。ひとりが全てを背負ってゆく世界と、皆で全てをわけあう世界。追われ、石を投げられ殺されるかもしれないことの覚悟を持たずには生きていけない世界と、生命というものを育むことを、再び試みようとする世界。別に無理して『ウォーリー』をヒーローと絡めて語る必要もなかったかもしれないのだが、「疲弊」や「再構築」や「おちょくり」の入り出したヒーローもの全般の勢いがひと段落したこの今というタイミングで、色んなことを考えるひとつの材料となるかもしれない、と思いました。

年明け三月には、いよいよ『ウォッチメン』も公開じゃ〜〜〜っ。とどめを刺すような出来であって欲しいね。
Posted by LittKidd - 2008.12.11,Thu
カ・ワ・イ・イ・〜ッ!『ウォーリー』観てきた、金曜日、新宿ピカデリーで。
ウォーリー、超可愛かった。もうあの手!足!胴!ふくらはぎ〜(エバァ)。
一方で、つるんとしてぱっと見そっけないフォルムのイヴがちゃんと可愛く見えるかどうか、がけっこう心配だったのだけど、それもまったくの杞憂でした。あのLED(かどうか知らんけど)の目に映る表情の豊かさ・愛らしさ…やっぱりピクサーには、 “カワイイのプロ”((c)watanavader)がいる。

いつものように映画のことなど何も分からずに言うわけですが、ディズニー配給のピクサー最新作、巨大な資本を背景に莫大な予算と膨大な時間を費やされて生まれた『ウォーリー』は、ジャンル映画の最たるものだと思うのね。ファミリー映画だしそれ以前に教育映画じゃないとまずいし、何よりもすごくヒットしないとすごくまずい、娯楽映画の大本道を行かなきゃならないような映画でなきゃならない。だから誰も殺せないし殺されない、といった根本的なとこから始まって、その枷の多さはもうハンパないんじゃにゃいかと想像する。下ネタはだめ、残酷な描写はだめ、立体化できないキャラはだめ(オモチャが作れないから)、ある程度以上の数のキャラを作って活躍させなきゃだめ(オモチャを売るために)…何千という数に及ぶ関連商品があるんだろうし、制作に関わった人数とかもう想像もできない。言うなれば、ジャンプのマンガと一緒なわけですよ。売るためのマーケティングとその蓄積から生まれたルールというものがあって、そこから外れずにいかに良いものをつくるか、というテーマが、作品や作家なんてものよりもだいぶ以前の方ででっかく立ち聳えてるという。違うところは、マンガにはそんなにお金がかからないということ。

で、端的に言って自分が『ウォーリー』のどこに感じるのかというと、そんなシビアな背景を持ちながら、がんばってSFやってたな、というところがまず一点。ゴミに埋もれ有毒なガスの充満する地球からディアスポラして、器官をじわじわと退化させながら何世代にも渡ってコロニー内部でのみ快適に暮らしていた人類が里帰りする、ていう大枠は、まあSFとしちゃありがちではあるんだろうけど、そこをファミリー向けの大作アニメでやるということに意義がある。まあ誰のための何の意義だ、ということは脇に置いておくとして、だから教育、というもっと広い一般的な観点からみると、どんなにSFであっても、この映画は現実の社会の反映でなくてはならないわけで、そう考えるなら、あの巨大宇宙船というユートピアはちゃんとした文明批判になっていた。やだ、メタボな自分を恥じちゃいますね!ただ、そんなまとも過ぎてちょっと気恥ずかしい「表の」テーマのもう一方で、この映画は打ち捨てられた者、省みられない者が、孤独の果てに救いの光を見いだす物語でもあるわけです。正直、ここが一番いいと言わざるを得ない、自分にとって。

だって、700年ですよ。700年間、死んだ仲間の屍からパーツはぎ取って、自分以外の生あるものがどんどん動かなくなるのを見つめながら、ウォーリーは自分の仕事を黙々と果たし続けてる。ちっちゃな体が積み上げてきた、エンパイアステートビル級のゴミの塔がいくつもいくつも立ち並ぶあの風景は、ウォーリーの孤独な生活の様相を、そのまま表現するものであるわけです。いや、そんなゴミをうずたかく積み上げることになんか意味あんの?片付いてなくない?ていう疑問を、最初は俺も持ちました。でもあとで思い当たったのだけど、実はあれは、ウォーリーの仲間の仕事の、ほんの一部でしかないのではないかと。(注:以下は俺の妄想です)宇宙船コロニーで、ウォーリーの何十倍もでかい“WALL-A”ていうロボットが出てきた。ウォーリーと同じようにゴミを片付けてる。あの“WALL-A〜E(もしくはそれ以降)”というシリーズは、そもそもA〜Eでひとつの仕事をするために生産されてきた(きっと)。すなわち、地球のゴミ掃除。こまかいところのゴミをEがまとめて運ぶ、それを寄せ集めたDがCのところに運んでって…という、小→大のゴミバケツリレー。だから最終的な処理ではなくて、収拾と運搬が彼らの仕事なんですね。で、描写としては(たしか)出てこないけど、700年という間に、ウォーリーの仲間たち、A〜Dと他のEは、時間的な消耗により死に絶えてしまってしまったんじゃないかと。たまたまここまで生き残ってきてしまったウォーリーが、いくら細かいゴミを片付けても、それを運んでってくれるD〜のロボットはもういない。でもじゃあなんでその意味のない掃除をやめないかというと…そういう風にプログラムされてるから。そういう風にしか、プログラムされてないからなのです。それしか出来ないし、他にやることがないんです。

そら来た!泣き所来たーーー。いや自分でおちょくるつもりは毛頭なくて、その「そういう命令しか受けてないから」という理由でひたすら愚直に同じことをやり続けている低位労働のためのロボット、という構造がちょっとたまらない。いいんだよ、もういいんだよ!そう言ってやりたいのだけど、でもウォーリーがもうちょっと賢くて、「もういいのか」って仕事をやめて引きこもって例の古いVHS(タイトル知らないんですけど、実在の映画?)ばっかり観てたら、イヴと出会うこともなかったかも知れない。だから、意味はあったんだよ!よかったよ!と。そのイヴとの出会いが、簡単にウォーリーを変える。700年間変わらなかったロボットが、イヴという他者恋しさにロケットの外部タラップにしがみついて宇宙へと旅立つ、という荒唐無稽さは、SF以外の何者でもない。地球を皮膜のように覆うデブリの層を破って、飛び出せウォーリー。思わず天の川に手をさしのべて、機械の手に当たった星屑がキラキラとはじけ飛ぶあのシーン…もう思い出してもじんわり来ちゃいそうっす!綺麗でねえ。

描写の部分に話を移すと、消火器を使ったユーモラスな宇宙遊泳とか、地球の壮大な廃墟描写とか、見ててよだれを垂らしてしまいそうな美しい「絵」の連続です。あのレベルのCGにどれだけ手間やコストがかかるのか、といったことは門外漢の自分にとってはまったく想像の埒外なのだけど、あの描き込みの細かさ、クオリティの高さはひと目見ればそりゃ伝わります。つか、金や時間がかかっていること自体が何も素晴らしいわけじゃない、ということを端的に、逆説的に表したのが、冒頭でも触れたあのイヴの可愛さ描写でもあるわけで。つまり、子どもが絵に描けるような(←これも重要)パーツの少ないシンプルなフォルムでありながら、あれほどの豊かな表情のバリエーションを見せることができるという。それはじゃあ何なのか、というと、センスなんじゃないでしょうか。
「こーしたらカワイかんべ」「こーしたら速そうだっぺ」「強そうに見えっぺ」とか言いながら、出来るだけ少ない手数で絵を動かしてゆく、アニメーションという技法のトップ騎手たち!その技とセンスが、『ウォーリー』を「目で画を追っているだけで至福の2時間を過ごせる」映画たらしめているのだ。そうしたセンスの良さは細かい部分にまで及んでいて、たとえばウォーリーの充電終了時のビープ音はなぜかマッキントッシュの起動音と同じ(appleらしい、一見おちゃめだが姑息なやり方)なのですが、その音のくぐもってること!ぼろい機械ってことが一瞬でわかるような、古いラジカセみたいなあの音には、たとえ企業に無理なことねじ込まれても俺たちゃひと工夫してやるぜ!という情熱、というか意気込みをも感じた。

ストーリーに目をやれば、あの植物がどうしたとか環境問題に絡めた大枠の部分って実にどうでも良くって、それだけにあの辺の設定はあまり緻密じゃない気がする。まあエコっていっとけば金も集めやすいし大人ウケもいいかも、ぐらいのことでしかない感じ?ラストで、ウォーリーがあまり活躍しないのが不満だという意見がありましたが、個人的にはあれでいんじゃないかと思う。そもそもウォーリーはゴミ処理産業の一端に従事する、というかただそれだけの仕事しか担っていない、しかも700年も前の型番の古ぼけたロボットじゃないですか。とりえといったら、丈夫だっていうことくらいの。いっぽうイヴは、あれほどのロボット管理社会であれほどの破壊力を持つ兵器の所持と使用を認められた、いわば選りすぐりのエリート。そんな天と地ほどの性能差を超えたボーイミーツガールなんだ、ということが、イヴの方が活躍することで証明されるし、何より非力で、トンチンカンなことばっかりやってるウォーリーの姿が愛らしくあるためには、いくら切羽詰まってるからってあまりめざましい動きを見せてもいけないんじゃないかと。(予告編を観てても思ったんだけど、ウォーリーのイメージソースのひとつには、チャップリンが確実にいると思う)その代わり何をするかっていうと、身を挺してあそこに挟まる!バキバキいってショート起こしながら、アレを守っているウォーリーの姿は、「あれしかできない」からこそグッとくる、そういうものになり得たんじゃないかなあと思いました。

ああ、まとまんない。えーと、とにかくSFとカワイイもの好きは観ろ!
Posted by LittKidd - 2008.12.02,Tue
新文芸坐でマキノ雅弘『昨日消えた男』。何も知らずに行ったら、遠山の金さんでした。

んでホントに何も知らないで言うんですけど、雅弘(今作では正博)、絶対、山田五十鈴のことが好きだと思う。長谷川一夫と五十鈴が何度もツンツンいちゃいちゃするんだけど、そのあとで必ず「うぅ〜ん、もう!」とか「文さんの、バカッ」とかいって身をよじって変な顔をしてみせる、五十鈴のカット尻が毎回長すぎ。必要以上に長いんだけど、それが尋常じゃなくカワイイ。ライティングも、高峰秀子の何倍も気を遣ってる気がした。「スターだから」とかそういう理由じゃなくて絶対に編集室で雅弘はハァハァ言ってると思います。ていうか、必要以上に長いとか言いつつこっちはそれに満足してるわけで、それは、フィルムをなかなか切らせない、という山田五十鈴の女優としての力なんだな。きっと。それに監督・観客ともども喜んでいる、という幸福な共犯関係がうんたらかんたら…ええと、万が一、本当に真面目な映画好きの人がここ読んでたら、すみません、ホント。

あれだけ登場人物がいて、しかし九日間で全撮影を終えた、というのはやっぱすごいことなんだろう。一週間チョイ、と思えばたしかに凄い。その秘訣は中抜き(ドンブリ、と昔教わった)という手法にあるそうです。スタジオ撮影だと確かにそれでどんどん短縮してけそうではある。事前にしっかりコンテ切っておかないと、編集でつじつまが合わなくなりそうだけど(合わなかったこと、何度もあります←あんときはスクリプターが悪かった)。

◇ ◇ ◇

柴田元幸の『ナイン・ストーリーズ』をようやく読み終える。『ライ麦畑』はそうではないけど、『ナイン・ストーリーズ』って本当に会話劇なんだな、と思った。二人以上の人間がいて、それでしゃべってればそれだけで成立する、というのではない(ある意味そうだとは思う)けど、それだけで成立するんじゃんか、と思わされてしまいそうなとこが、サリンジャーのセンスの卓越したすさまじさだ。本当に卓越してる。『コネチカットのひょこひょこおじさん』と『エズミに捧ぐ』(柴田版では微妙にタイトル違った)は何回読んでも泣く。

◇ ◇ ◇

久々に職場近くの古本屋へ。『はだかの太陽』は残念ながら見つからず!明日普通の本屋も行ってみます(私信です)。オースン・スコット・カードの『消えた少年たち 上・下』とテッド・チャン『あなたの人生の物語』を購入。そろそろディック以外のSF補給しないと。ヴォークト『非Aの世界』『非Aの傀儡』(文庫)を創元の旧ジャケで発見したけど、現行版で新品買ったほうがいいかな?と思案中。明日リブロかジュンクに行って考えます。

◇ ◇ ◇

ジャンプで『スケットダンス』の人気投票発表回。メインの3人がそのまんまTOP3、というきわめて健康的な投票結果に、浪漫(4位)派のボクも納得です。でも「スケットダンス」で検索するとアンチな人のブログに行き着いてちょっと落ち込む。『銀魂』のアンチ、はわりと想像できる気がするんだけど、『スケットダンス』でか…いるもんなんだなあ。ところで、正直、『スケットダンス』がジャンプマンガじゃなかったらどうなんだろう、と自分に問いかける。でも好きだなきっと。
Posted by LittKidd - 2008.11.29,Sat
新文芸坐でマキノ雅弘『殺陣師段平』。仕事を終えて、ぎりぎりで駆け込んだ。
映画の途中から、もうグズグズと鼻が鳴りだして、ラストには号泣。映画は作り物だ。そんなしかも60年くらい前の作り物に、これでもかというほど泣かされてしまう不思議。

主人公の市川段平は、一本気でこうと決めたら曲がらない、古いタイプの頑固な男。難しいことはあんまり考えない。その行動様式は、単純だが筋が通っていて強靱だ。こういう主人公、大好き。『車夫遊侠伝 喧嘩辰』の辰もそうだが、彼らはみんなバカである。愛していることやものに関して、計算や打算ということができない。嘘がつけない。そして世間は、嘘でもいいからと、利益とか効率とかそういったものばかりを求めてくる。そんなものは差し出せないから、世間とはけんかばっかりになる。だがそれゆえ、そこには真実の愛がある。段平の場合、その愛は殺陣に向けられているのだ。

インテリの沢田正二郎率いる新国劇の初の髷物となる『国定忠治』、その殺陣では、従来の歌舞伎のような型を重んじるのでない、むしろ「型のない」殺陣というものが求められていた。リアルであり、写実である剣戟。文盲で無学、古い芸道の世界でしか生きてこなかった段平には、沢田の求める「リアルな殺陣」というものがわからない。新しい芸術の世界の不可解さに、古い男が落胆し、憤り、とまどいながらも、何とか自分を変えてゆく。苦心の末に生み出した殺陣は、人気を呼び、公演を大成功させる、という結果を生んだ。

まずこの、「古い男が必死になって」というところでもうグスン、とくる。形になった殺陣、満場の拍手喝采、飛び交う声援。汽車の走るレール、新たな芝居とその殺陣の場面が、一座の引っ張りだこの成功と人気ぶりを表すためにカットバックで交互に入ってくるのだが、芝居小屋の観衆と一緒になって、大拍手を送りたい気持ちになる。演技や演出では特にそういうことが多いと思うのだが、綿密に、考え練られた理論というものを、ひとつの形にしてみせる、というのはすごく大変なことだ。ロジックをアクションへと変換するアクロバット。その過程では、こぼれ落ちてしまうものの方がきっと多い。だから、ぱっと見ただけの者には、なかなかその意図の全ては伝わらない。そこをどうにか伝えたい、というのがものづくりの醍醐味であって、その試みが成功するのを目の当たりにすることは、何かを見たり読んだり(もしくは表現したり)するうえですごく大きな喜びなのだ。そういう瞬間を写しとって、ひとつのお話としてパッケージングしていることに驚くし、とても感動する。

また段平の妻、おはるを演じる山田五十鈴が素晴らしい。夫の不遇にはともに涙を流し、喜ぶときには一緒にはしゃぐ。だからといって男にべったりなのではなく、甘やかさず、時に突き放し、叱り、でも最後には手をさしのべてくれる。これって、また別の愛の本当の姿じゃないだろうか。男権主義的だ、女性を従属的に捉えた視方だ、と言われようと、こんな女房を持った男は最高に幸せだと思う。幻想かも知れないけど、すげえいい女なんだよ、男にとって。

一度は成功した殺陣の芝居が、もう東京ではウケない、とお呼びの声のかからない段平が腐っていると、実はそうじゃなかったと、あちらの公演に改めて呼ばれることがわかる。その段平を東京に送り出すシーン、部屋を挟んで、のれんのこっちと向こうで、実はずいぶん前から体を悪くしたおはるが段平とお別れする。わざわざ部屋をまたいで言うのではない、おはるが呼ばれて玄関に行った、朗報を耳にして戻りかけて段平にそれを告げると、聞いていた段平がすでに荷物を持って立っている、それがたまたまのれんのこっちと向こうなのだ。その位置関係、のれんでお互いの顔が見えないのである。こうした人物の配置の仕方、巧すぎる…。気をつけて行っといで、と、おはるは段平の財布にお金を入れてやる。そのとき、ほろりと涙をこぼすのだ。ここで泣いちゃった。いや俺が。だってそりゃ泣いちゃうよ。めっちゃ顔色悪いんだもの五十鈴。それなのに、けなげで、愛情に溢れていて。

その後は、若干テンポを乱しながらも、段平の真っ直ぐな人生の残りを描ききって映画は終わる。クライマックスのひとたびの国定忠治、その殺陣と段平の生き方が重なって、ひとつの大きな芸術を生むラストは本当に見事。芸への愛、師弟愛、親子愛、夫婦愛。いろんな愛があり、それらを余すところなく描いた物語にマジで涙が止まりませんでした。

こんな気持ちを表す言葉なんてない。
かわりに、精一杯の拍手でお礼にならないお礼をしました。
Posted by LittKidd - 2008.11.28,Fri
♪ボ~クは若~い殿様~(ディック・ミネ)

軽快なジャズに乗せ、歌い踊るオペレッタの幕があく。舞台は江戸、傘張り浪人や町人たち、大名におじさんに、美しい娘たちがおりなす恋の歌劇の始まりだ。オペレッタ、が正確には何を指すのか実ははっきりとは知らないのだけど…どうだっていいじゃない、そんな些細なこと!と思わされること請け合いの、変テコ楽しい映画でした。

世の中にはこれだけはやらなくちゃ、ということが幾つかあって、そうした行いを、損得とは別の領域でやれる人を僕は尊敬しています。だから映画の最後、ヒロインのコがなした選択にも「そうでなくっちゃ!」と、スカッと胸のすくような思いがするわけです。

実際のところは、生きてると「貧乏ってイヤだなぁ」と思わされるようなことばっかりです。世知辛い。だからカラいけどツラいけど、貧乏だっていいじゃん、とりあえず俺もお前も生きてこうして一緒にいるんだから、とみんなが思えた時代は素敵だな、と心底思った。宝塚みたいに登場人物がぼんぼり持って並んで歌うラストも、何か祝祭のような感じがしてすごく良い。単純といえば単純すぎるストーリー、だがその単純明快さに徹して、テンポ良く歌と芝居を見せてゆくという部分に眼目を置いた、ある意味で「軽い」演出(と編集)が素晴らしいです。

ただ、志村喬がその声の良さを買われて、テイチクからレコードデビューを打診された、ていう逸話は、ちょっと眉唾な気がするんだけど…。
Posted by LittKidd - 2008.11.23,Sun
ワイエス展をあらかじめ計算した時間で見終わって、池袋へとんぼ返り。駅から走って、新文芸坐の『イースタン・プロミス』最終回上映にすべり込みセーフ。いや〜良かった。

世間でどういう評価なのか全然知らないのだが、娯楽作品として超面白かった。もう続編作ってもいんじゃね?(ありえないけど)と思うくらいに、ヴィゴ・モーテンセンの兄貴がカッコイイ。スーツに包まれた体(特に背中)の線がとてもきれいで、その筋肉の動きはまうごつセクシー。ムチのような裸体をさらしての戦闘(銭湯)シーンがまた、見てるこちらの皮膚がひりひりと震えるような素晴らしさで。銃を一切使わないとこがまたイイんだよなあ…肉が裂け、血が迸り、サウナのスチームが滴って落ちた床に混じって流れてゆく…僕が女の子なら、あそこは確実に欲情しちゃうとこですね。浴場だけにね。

マフィアのぼっちゃんは結局やっぱホモなのかなあ。どっちでもいいんだけど、ヴィゴの兄貴性には確実にヤラれてた。
ロシアン・マフィアというわりに地味な存在がフィーチャーされてる点もいいなあと思った。結局、「民族」で繋がりながらも、他国で「ちょっとはマシ」な生活をするために、同胞だろうと友人だろうと踏み台にできるもんならするし裏切りや粛正の恐怖に怯える毎日で、殺されるよりは殺す、という非情さはマフィアにはつきものなのか、もしくは映画特有の定番プロットなのか、はわからないけど、社会主義崩壊後、貧しい国出身(劇中で死ぬのはグルジア出身の14歳の少女)の若い人が西側で犯罪や売春に染まってゆく、という現象は今も厳然としてあるのだろうな、とはぼんやりとではあるけど想像できた。グランド・セフト・オート最新作の主人公もたしかあのへん出身だったような。

今より「ちょっとはマシ」な暮らしを夢見て、都会に出てきて、騙されて…そうした「東側」出身の若者達を見て、主人公ニコライが思うこと。彼が果たそうとした「約束」とは。タイトルはそういう意味なんでしょうか。国際情勢には疎いのだけど、そうした国家とか民族にまつわる痛切さが、映画のベースとして活かされていると思った。

ラストの平穏さに、なぜかちょっと『マイノリティ・リポート』を思い出しました。
『ヒストリー・オブ・バイオレンス』をまだ見てないので必ず見ます。
Posted by LittKidd - 2008.11.15,Sat
きのうの日記。午後二時から、ムスメの通うことになる保育園で両親の面接。髪を切ってスーツを着る。大人と話すので一応。保育園はすごくきれいな、新しいところだった。なんか年かさの先生がちょっと態度がでかいのが気になるけど、まあ許容範囲。私立だけあって門の開閉等が大仰。面接の内容は、ちょっとした連絡事項的なもの。わざわざ有給取ってくるようなものじゃなかったかも。サボれたからいいけど。
夕方5時頃出社。8時で抜けて、渋谷へ『眠り姫』とゆう映画を観に行く。監督は七里圭(とゆう人)。内田百閒原作の山本直樹のマンガ、を原作とした映画、と聞いて是非とも行かねば、と思った1年前、どうしても都合がつかずに、くやしい思いで観逃していた作品だ。

劇場へ急ぐ途中、久しぶりに前を通ったBunkamuraミュージアムでワイエス展やってるのを知る。まだ始まったばかりらしい、ワイエス、原画を見たことないからこれは行ってみたい。そういや上野のフェルメールも券もらってるし、あっちもちゃんと行かないとな、などと思いながら。少々迷ったが無事に「UPLINK X」へ。映画館というよりは視聴覚教室みたいな。狭いビルの一室に、高低差をつけるためだろう、色んな種類の椅子が置かれていて、僕が行った頃にはすでにほぼ満員(といっても50人くらい)だった。上映はプロジェクター。知らなかったが、作品自体もデジタルだった。

デジタルの映像作品を観るときに、いつも気になるのが音の問題だ。フィルムでない、という意味でわりと身近な手ざわりの映像なのだが、あれには、ファミリービデオなどで観るときにはほとんどいつもそうであるような、「カメラに録音マイクがくっついている」感じの音の聞こえ方(遠くのものは遠く、近くに映っているものは近くに聞こえる)、というものがあって、それに慣れすぎた眼から見ると、そうではない、つまりファミリービデオでなく映像作品として編集されたものに関しては、そういう音の聞こえ方がしない、というところに違和感を感じてしまうのだ。話し声が妙にクリアだったり、背景音に奥行きとかふくらみがなかったり…デジタルの明るくフラットな画面だからこそ、そうした「音の不自然さ」が、より際だって聞こえてしまうのだろう。いや、映画における「音」ってそもそも「不自然」なものなんだろうけど観ていてそこにひっかかってしまうかどうか、という話で。

この『眠り姫』も、「登場人物がほとんど画面に映らない」という特殊な映画なだけに、音に関してはほぼアフレコだった(と思う)。そもそも制作当初は別な映画の上映の際に、イベント的にライブの室内楽演奏とともに上映する、という、昔の映画みたいな何だか優雅な短編作品だったらしい。たしかに音楽は弦楽何重奏だかわからないけど繊細でかっこ良く、このへんはちょっと百閒ぽいのかも、とよくわからないながらに思ったりもした。で、他の音なのだが…セリフがけっこうくぐもっている、のはそういう演出だからだろうか。「いいマイク、使ってない」みたいに聞こえてしまった。特に主演の女優さんの息がマイクにかかる音が聞こえまくりなような…。学校や喫茶店のざわめきなんかも、素材?と思うほどに薄っぺらい。少なくとも音ロケはしてなさそうな感じ。その薄っぺらさ、奥行きの無さは山本直樹的と言えなくもないけど、弦楽何重奏とのギャップが激しく埋まらない。極めつけはネコ。鳴くかな、鳴くかな、とはらはらしていると、やっぱり「ミャーン」て鳴きやがった。口が映ってないからいい、とかそういう問題ではなく、あの背中は鳴いてる背中じゃない、というか、ネコが絶対鳴かないだろうところで「ミャーン」とくるので、それが本当にすごく残念だった。映像含め、やってることが面白そうなだけに、音に関してはもっと気を遣うべきだったのでは?という感想。



劇場出てちょっと歩くと、全面板張りの、オープンデッキの変わったバーを見つけて立ち止まる。すぐに奥からオーナーさんと思しき人がやってきて、「ビールとワインのお店なんです、どうすか」と誘われたので思わず「じゃあ」と入ってしまう。ビール一杯500円、スペアリブ2本で500円、チャージなし。どっちも安くてうまい。しかしまあ、ほんと見るほどに、天井も壁も床もテーブルも、全てが杉の生板。フラットだ。なんでも廃材を使って安く仕上げたらしい。「10月に開店したんですが、毎日のように『いつオープンするの』と聞かれます」とのこと。見ようによっては確かに「内装途中」な雰囲気。でもかっこよかった。奥のテーブルで広末の元ダンナらしき人が友達と飲んでた。おそろしく脚の長い白人の男の子四人組に、店員が「ヘ、ガイズ」などと話しかけている。男の子たちはワインをガブガブ試飲しながら「ア ライキッ」とか言っている。池袋や我孫子にはないセレブさ・国際性におののきつつ退散。カウンターでディックなんか読んでる場合じゃない。

帰宅後、デッキに入れてまだ観れていなかった『ブレードランナー』を観ようと、テレビの電源をON。あれ、映らない。と思ったらDVDが入ってなかった。ムスメがどっかにやったみたい。見つからないので他の観よう、とあれこれ探してたら、別でコピーしてそのまま忘れてたのか、盤面に自分の字で「BLADE RUNNER」と書かれたRを発見。よかったよかった、と再生してみると、なぜか中身は『ニューヨーク1997』だった。まあいっかと観始めるも、眠気の限界だったらしく(おそらく)15分くらいで寝る。最近ほんとにだめだめ。
Posted by LittKidd - 2008.10.30,Thu
十日目、どくしん最終日。咳をしてもひとりィイイイイイ!(放哉/Dio)
マーシーがブログを始めたみたいだ。がんばれ。有給取って明日から九州へ行きます。ヨメやコドモや親戚や実家と合流して、コドモの七五三。写真とか撮るから、こないだ一万円で買ったスーツが活躍の予感だ。一万円といっても、セミオーダーなんだよ。えっとゆざわやっていう生地屋さんがあって、そこがたまにそうゆうキャンペーンやるんだよ。知ってる人に教えられて、チャコールグレイのぱりっとした二つ釦のを作ったんだ。

会社帰りに新宿武蔵野館で『落下の王国』を(やっと)観た。素晴らしい映画。別な目的のためにその場しのぎで語られる青年のお話は、妄想とか願望とかを多分に含んでけっこう現実を生々しく映し出してたりする。でも語られる側の少女にはそういう事情はわからない。ただおのれの想像力を通して、(おそらくは)シンプルなその元のお話の細部を、どんどん膨らませていく。お話は、少女の現実にも大きな影響を及ぼしていく。その影響がまた「ふたり」の「お話」にフィードバックされてゆき、最終的に物語は「ふたり」でなければきっと辿り着くことはできなかったであろう結末へと導かれてゆく。
衣装やロケーション、色彩・構図へのこだわり、といった映像美がさかんに取り沙汰される映画ではあるが(実際その美しさは本当に見事だし、それらがあってこその映画であることは間違いない)、このように「お話」が生まれ、人の心に残っていく、といういわば「物語の誕生譚」である面こそが自分にとっては強く印象に残った。泥をこねて、不細工な何かをかたちづくってるみたいな。青年と少女、ふたりのそんなごっこ遊びのようなお話づくりが、我々の見つめるスクリーンにおいては一分の隙もなく計算し尽くされた映画という芸術に変貌を遂げる。その跳躍に宿るマジック。このお話が本当に元から青年のいうような「一大叙事詩」であったら、ここまでの感動は生まれていなかったと思う。だからこそ、ラストシーンはあんな感じで終わるのだ。壮麗さを極めた本編の映像と、今の僕らの眼から見れば素朴で不格好な、無音のコマ落ちの手廻しフィルム。両者にこめられた作り手それぞれの思いも、観たものが受け取るであろう感動も、根っこの部分では同じものであるはず、という。反語的だが、そういう映画や物語の本来的に持つ素朴な美しさを表した映画だったように思いました。
主演の女の子がまたすごくいいんだよなあ。よく見つけたと思うよ。あと冒頭でフィンチャーとスパイク・ジョーンズの名前が出てて、見間違いかと思ってたら本当にあの二人だった(wiki)。
エンドロール、最後にクレジットされた『GOOGLI FILMS』に思わずにっこり。
Posted by LittKidd - 2008.10.16,Thu
吉祥寺の爆音に初参戦。
「爆音サーフ・フィルム・フェスティバル2008」で『クリスタル・ボイジャー 』観てきました。

もう言葉はない、ていうか言葉の必要はない。ストーリーがどうとか人物の心情がどうとか、映画を観るときにはそうゆうことをセッセと考えてる自分が何かきたならしいもののように思えてくる。それくらい、画面にはただ美しいものしか映っていなかった。いい環境でサーフィンすることと、そのために必要なもの。サーフィンしている間に見えているもの、その体験そのものをフィルムに焼き付けようという行為。映画を観た、というよりは体験した、と言いたいような、90分足らずの出来事だった。

南カリフォルニアの海、ハイスピードで撮影された波が、ゆっくりと砕けて、キラキラと海の表面に落ちてゆく、あの光の粒。サーフィンしている人物を望遠で狙ったショット、これも独特のスピード感があり観てて飽きることがないのだが、やはり実際にボードの上に乗って、変化し続ける海の表情を間近で捉えた映像に、文字通り目を奪われてしまう。うっとりする、と言ってもいい。もう絶対言葉では伝えられない自信があるけど、うねる波の内側から太陽を見上げた、穏やかな水の表面(裏面)が、徐々にぷつぷつと泡立ち、あれよという間に大きな粒のかたまりとなって、ぶつかり合い、潰し合いしながら渦を巻いて、巨大な奔流となって自身を海の内側にまた巻き込んでは、溶けて消えてゆく、あのスペクタクル!スペクタキュラー!

いやほんとにスゴくて。最後の20分くらいかなあ、もうひったすらその逆巻く波の表情のアップがえんえん続いて、そこにピンク・フロイドの『エコーズ』ですか、あれがただずっと鳴り響いてる、というあのラストは圧巻でした。暴力的、かつ思索的。凄まじい音像が、とても静かに思い出される不思議な感じ。あまりに心地良くて、うっかり寝てしまいそうになった。あんな轟音なのに。

夕暮れ、サーフィン仲間がボードにつかまって、海を見ているシーン。夕日の逆光が彼らを金色に染めていて。
きわめて動的な営為の連続の中で、ふと現れたその一瞬の「凪」のようなショットに、強く胸をうたれました。

観終わって…なんかマッサージのようでもあったなあ。心なし、首と肩がちょっぴりラクになってるような気が。
ああ…俺、なんでこんなくだらねえ仕事してんだろ…。
はっ。雲行きが怪しくなってまいりました。

そろそろでっかい波に乗って、スベってばかりの生活には終止符を打ちたいなあ。
…お粗末さまでした。
Posted by LittKidd - 2008.10.15,Wed
能天気な映画が好きだ。痛快だったり荒唐無稽なほどいいし、観終わって気分がスカッとするようなものが望ましい。なので嫌々観に行ったのだった。でも行かなければずっと気になってただろう。

上映中、ずっと映画は負け続けていた。果敢に挑んではいたが、江口洋介と妻夫木クンではあの内容、あの現実には勝ちようがなかった。この現実とは、タイや他の国々で実際に行われている、臓器移植(臓器の提供)や売買春のために、幼児を含む児童が人身取引の対象とされている、という事実だ。犯され、性的、嗜虐的な暴力を受け続ける子供たちの表情。健康な臓器を取り出されるために、生きて手術台に上る少女。

劇中の人物が何かを口にするたび、スクリーンの向こうで「現実のタイ、いや世界中のあらゆる場所で、実際にはもっとおそろしいことが行われているのではないか」というあるべくしてある疑問が渦を巻き、その圧倒的な風圧を前に、映画という虚構がぺらぺらの紙細工のように力なく弊れてゆく。そんな思いで画面を見ていた。シンプルに、ただあまりにも重いのだ。ドキュメンタリーでやるべき、という意見もきっとあるだろう。だがこのテーマであえて劇映画を、という意志を持つこと、その意義も自分は理解できる、ような気がする。人気俳優が出て、話題を呼べば、この問題について考える人もそれだけ多くなる、ということ以外に、「劇作品」の力をこんなに試される題材もないだろうからだ。素晴らしいフィクション、美しい虚構と呼びたい傑作『顔』をかつてものした阪本順治監督の、今作での挑戦に、フィクションを愛するもののひとりとして、心の底からの拍手を送りたい。僕の目から見て、ごめんなさい、それは大いなる失敗と映ったのだけど。

思い出されるのは、町田ひらくのマンガだ。視点は違うし、言いたいことだって違うだろう。だが彼のマンガの、フィクションとしての強度はすごい。徹底的にリアルに、幼児性愛や近親相姦のありうべき情景が精緻に描かれている。そこに共感はまったく出来ないし、読んだあとは吐き気を催す(&ものすごい疲労感におそわれる)のだが、その作品は、「町田ひらくのマンガ世界」としてまったく揺るぎなく成立している。『闇の子供たち』を観て「これをそのまま事実として受け取ることはできない」「大げさに描かれている」「事実と違う」といった感想を持った人は、彼のマンガを読んでみるといい。そして、実際に行われていない、行われるはずがない、などいうことは誰にも言えない、ということが伝わるといいと思う。「起きていること」「起きるかもしれないこと」、その両方がおそろしいのだ。そういう想像力を持つべきだ。

そういう僕はというと。宮崎あおい(熱演だった!)扮するNGOの職員とその現地の仲間たちが、監禁された少女を売春宿から救おうとしている間、ずっと「自分がアイアンマンだったら」と考えていた。冗談じゃなくて、あのスーツがあれば、あんなやつらすぐに片付けて、助けてあげられるのに、そういう思いがちらつくのを止められなかったのだ。こうした物言いが、虐待されている子供たちや、アイアンマンにも礼を失するということは自分でもわかっている。ただどちらをも侮辱しているのではなく、自分の感じた情けなさ、悔しさが、この事実からきていることを述べておくべきだと思った。現実の世界にも、フィクションの世界にもよりかかるのでなく、自分の考えや立場というものをしっかり持たなくては、どちらを見てもきちんと評価することのできない人間になってしまう。あと、歴史や国際社会といったものをもちっと意識的に学ばなくてはいかんよなあ。しんどいなあ。そういったことを考えさせられました。
counter
comments
[11/13 NEX-5N]
[12/13 watanavader]
[11/25 Watanavader]
[10/30 litt]
[10/30 watanavader]
searching in wissenschaft
profile
HN:
LittKidd
性別:
男性
 
Template by mavericyard*
Powered by "Samurai Factory"
忍者ブログ [PR]