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Posted by LittKidd - 2009.02.15,Sun
金曜日、珍しく外での打ち合わせ。予想外に早く終わって夕方までぽっかりと空いてしまったので、お昼も兼ねて『ベンジャミン・バトン』観てきました。まぁサボリともいいます。いんだよ午後はヒマだったから。

以下感想(思い入れの激しい感じの)です。長くてうざいです&ネタバレします、ご注意ください。

面白かったんだけど、なんか釈然としない。具体的に言うと子どもが出来てそれにびびったベンジャミンが家庭から逃げ出す後半の展開、これがすごく不満だ。そこ以外がほんとに素晴らしかっただけに残念である。

ベンジャミンは逆行する時間の中を生きる、いうなれば通常の時間の流れの外側から来た存在だ。それゆえ誰とも並んで走ることがなく、つまりは接する人たち全て(いわば世界)とすれ違うことでしか生きていけない。これはベンジャミンが生まれながらに持たされた寓意だ。なぜそういった寓意を含んだ人間が生まれたか。ベンジャミンの投影でもあるあの時計のことを考えればわかるが、そこに明確な理由はなく、別にそれはそれでいいのだろうと思う。あの時計は時計職人の意図によって生まれたわけだけど、彼はそうすることで本当に時間を巻き戻そうとしたのではなく、(彼自身が言うように)あの時計しか作れなかったからそうしたのだ。同じような理由(=理由の無さ)でしか、ベンジャミンの誕生の意味を説明することはできない。
物語は、「寓意の表現者」たるベンジャミンの人生を追うことで、その時々にすれ違う人々の生を照らし出し、強烈に浮かび上がらせる。これがこのお話の仕掛けであり、肝心の寓意の果たす機能でもある。逆回りの生を生きるベンジャミンにとって、出会う人全てがいつかは離れざるを得ない、つかの間の同居人でしかない。たとえそれが愛する人であり、自分の血を分けた子どもであってさえも。このジレンマの強さ、せつなさがそのまま物語の基調となり、そこにこそこのお話のドラマが生まれているのである。

だが、それ以上のものが欲しかった。ここは欲しかっただろう。だってアイデア先行で勝負する、テーマ偏重の短編小説ではないのだから。
言い換えれば、短編というボリュームでならそれで逃げ切れるのだ。その程度には優れたアイデアだ、と言うこともできる。だが3時間にも及ぼうかという上映時間の中で、ブラピという肉体をまとったベンジャミンは、僕の中であまりにも「生きて」しまう。その誕生から死までを見つめるあいだに、僕にとってどうしようもなく、一人の生きた人物として意識されてしまうのだ。また、そうでなくてはならない。そうでなければ後述するこの作品のいくつかのメッセージが成立しない。つまり、ストーリーに隷属する「寓意の表現者」というだけの存在を超えて、ひとつジャンプした場所で、ベンジャミンは「人間」として生まれ変わらなくては(そういう風に描写されなくては)いけなかったはずだ、と僕は思うのだ。それはすなわち、父親として家族とともに人間社会の一員として生きる、という選択である。デイジーを愛し、キャロラインのことを愛していたのなら、彼女たちのためにも共に人生を戦うべきじゃないのか?ストーリーのテーマに組み敷かれ、道具としての運命から逃げ出せなかった主人公の造形が、結果ストーリーの豊饒さ・強靱さの欠如を物語る第一要素となってしまった。アイデアに血が通い、肉を持ち、動きだすには至らなかったということだ。

劇中では何度か、登場人物の口を借りてこの映画の発するメッセージと呼んでもいいものが表明されている。

ベンジャミンを育てた、施設のクイニー母さんはこう言った。
「いろんな人がいて、いろんなことがある。だから今、生きていることに感謝するの」
タトゥーを愛したチェルシー号の船長はこう言った。
「おれはアーティストだ。おまえも好きな道を生きろ」
ベンジャミンと別れて老年を迎えた人妻エリザベスはこう言った。
「年齢は関係ない。誰だってやりたいことがやれるはずよ」
大人になって、久しぶりに再会したデイジーはこう言った。
「人生で起きることは、前もって全て決まったことだ、って話知ってる?これはそうよ! …(中略)… あたしはそれを運命って呼ぶわ。そのほうが好きだもの」

どれも正確にはこういう言い方じゃなかったかもしれないが、こんな感じの話だったと思う。この中でデイジーの言葉だけが、どこか違和感をともなって自分には聞こえた。

ベンジャミンは、そのデイジーの言葉を選んでしまった。つまりそういうことだ。自分の体質と、そのせいで将来起こるはずの不都合、家族にかけるだろう迷惑や子どもへの悪影響を恐れたベンジャミンは、「ひとりで生きる」という選択をする。自分を待ち受ける「運命」から逃げようとすることで、逆にそれが動かしがたいものであることを認め、もはや彼の生きる場所であったはずの「家族」から、と同時に、かばかりか一気に映画の外へと、ベンジャミンは退場してしまうのだ。それはベンジャミンだけでなく、誰もが持つ「人生と戦う権利」を放棄する、ということのメタファーでもある…そうとれてしまう。
何年か経って現れたベンジャミンは、「CGでつくったティーンのブラピ」を見せに来たようにしか思えなかった。再会の夜、ベッドをともにし、服を着るデイジーのしまりのない尻や背中が痛々しくてたまらないのは、それが愛する人との久しぶりの美しい時間、などでなく不倫という裏切り行為の後でしかない罪悪感や悲壮感、相手の若々しい肉体を見てしまうことへの嫌悪などを、観ているこちらが感じ取ってしまうからに他ならない。もちろん意図された通りの演出ではあるのだが。

僕の中で膨らんだ「自分の望む人生を、できれば素晴らしい人生を生きてほしい」というベンジャミンへの期待は、以降急速にしぼんしまった。認知症にかかって日に日に子どもに戻っていくベンジャミンの姿には、もはや特別なものは何もない。その末期に何のドラマ性もないし、あれは悲劇ですらない。寂しい後半生を送った老人が、かつて愛した人に看取られて死んでゆく、たったそれだけのことだ。

そんなもの、映画で観る必要があるだろうか?
戦って負けるのはしょうがないだろう。でも戦おうともせず、尻すぼみに朽ちてゆく主人公の魂を見るのが辛かった。まあ個人的に、そういう風に思ったってだけの話ですケド。でも個人的な感想以外、映画について語れるものなんて持ってない。

17歳を迎えたベンジャミンがチェルシー号の乗員として大海に漕ぎ出すあたり、もうワクワクしながら観ていた。人妻エリザベスとの恋愛、戦争の体験、船長との別れ、デイジーとの再会とふたたびの別れ、実父との邂逅。すべての人びとが、ベンジャミンと彼らとのふれ合いが、輝いて見えた。観に来て良かったなー、と思っていたんだけども。

あと現代パート、これって要るのかな。結局子どもが生まれたこと、デイジーがいつかは死ぬことなども、彼らの人生を順を追って観てればわかることだろう。ていうか最後、デイジーがこうなった(現代になる)、ていうので良かったと思う。交互となる構成が、単に「長い上映時間の中だるみを解消」するためのもの以外に特に機能してない気がする。娘のキャロラインの存在がまた厄介だ。ベンジャミンとデイジーの成し遂げた何か、育んだ何か、たとえばその精神が彼女に引き継がれるとかいったような話ではないので、結局狂言廻しというかナビゲータとしての役割しか果たしていないように感じられる。それじゃ可哀想だよ、なんか。「なにをやってもうまく行かなくて…」なんてしみったれたセリフしか印象に残らないし、後の世代を生きる者がこれでは、「努力しても運命は変えられない」みたいな結論になってくる。すくなくともそういう印象。それじゃあ辛すぎるし、クイニーや船長のメッセージはどうなるのよ?

ブラピ、ケイト・ブランシェットの演技は超いいし、映像的にも「観たことない」って思うような美しいとこがいっぱいある。細かい部分もすごく良いとこたくさんなのに、手放しでホメられないのがくやしいです。だってさー…。そうだ、結局、あの「ロゴがボタンでできてる」とこも、そんなに効いてないでしょ?だってベンジャミン、ほとんどボタンにタッチしてないんだもの。そういうとこも含め、フォレスト・ガンプの脚本チームが作った(あ、観たあとで知りました)にしては、詰めが甘いと言わざるを得ない。
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