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Posted by - 2017.04.28,Fri
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Posted by LittKidd - 2008.12.13,Sat
Mr.インクレディブル、久しぶりに観た。面白いなあ。この監督やっぱすごい。
『レミー』を観てないことを反省…
そしてついさっき、『ウォーリー』に関して自分のエントリで言ってたことが間違いなのを確認!
ウィキペディア
にて☆ WALL-B〜Dなんていないみたいで〜っす。

インクレディブルを観てて強く感じたのは、ウォーリーってやっぱりアンチヒロイズムな映画なんだな、ということ。それが意図的なものか結果的にそうなったものなのかは分からないけど、一緒に観終わった友人がほとんど開口一番でもらしたように、ウォーリーががっつり大活躍、ていう映画ではないのだ。この『ウォーリー』には、本当にヒーローがいない。いやまあしいて言えばそれはウォーリーであり艦長でありイヴなんだろうけど、その功績は巧妙に分担され、状況打破のカタルシスみたいなものも、どっと盛り上がるというよりは、喜びとともにそっと示されるにとどまっている、ように思えてならない。なんかすごく優しいのだ。

つまり、悪の存在がないのじゃないか、と思った。たとえばスーパーマンのような強力な求心力を持った存在がすべきこと、それはもしやすると彼以上に強力で、しかも凶悪な敵を倒し、世界を救うことにある。だが『ウォーリー』においては、「地球に降りない」という選択は市民の命を脅かすものではけっしてないし、あの「舵」だってあくまでプログラムと市民の安全を守ろうとしただけだ。極論すれば、あそこで無理に地球に降りなくても、イブは次の機会に、また別の植物を見つけることができたかもしれないのである。いや、これは前のエントリでさんざん言ったように、『ウォーリー』の映画としての評価には何ら影響するものではない。この「悪の不在」は、むしろ『ウォーリー』以外の映画や、現在のアメリカを取り巻くヒーローブームにこそ、何かしらの考察のヒントを与えてくれるもののような気がしているのだが。

まー色んなヒーローが映画になった近年であった。多くはアメコミだし、やはり彼らが一番目立つ。ここですごく性急な物言いをすると、コミックにおけるブームがそうであったように、映画の舞台で活躍した彼らの中にも、「疲弊したヒーロー」が現れ始めたのは印象深い。まず流れをおさらいすると(記憶だけで振り返ってるのでとんでもない間違いをおかしてたらメンゴ)、おそらくはスパイダーマンの快進撃から始まり、X-メンでその炎が激化した。ファンタスティック4やデアデビルに、ヘルボーイといったミドルクラスが裾野を広げ、観てないけどゴースト・ライダーなんてマニア向けまでが表舞台に転がり出たりした。そしてついにあの男、スーパーマンが復活して、「ブーム」の刻印に太鼓判をダメ押し。他にもコンスタンティンや、記憶に新しいハルクやアイアンマンが、変わらず世の中を愉快にをかき回していた(冬の時代は、バットマンが一人でひっそりと支えていた)。

彼らはみんな(だいたい2時間以内で)自らの敵を破り、世界を破滅から救ってきた。だがそんな流れがいつまでもいつまでも続くわけはなく、ある日、これまでとは違った二つの異質な敵が現れた。振り返れば、それはまったくの必然だったのかもしれない。そのうちの一人は、『ダークナイト』のジョーカーだ。純粋悪、悪を超える悪、理解を拒み続ける突然変異(ミュータント)のような悪。その登場のタイミングは、ピークを迎えて燃え上がったヒーロー熱に何千ガロンもの冷水をブッかけるような、すばらしく効果的で目の覚めるようなものだった。「悩むと言えば俺でしょう」とばかりに、満を持して苦悩と葛藤に身を固くするバットマン。その悲壮な決意は、コミック『DKR』とまったく同じように、勧善懲悪だけじゃないヒーローの奥行きと広がり、リアリティとかセンシティビティといった新しい次元を切り拓いて見せたのだった。てかごめん、ハルクとアイアンマンはその後でした。でもその前にもう一人、「世界の外」から現れた敵、それが『ハンコック』だ。

『ダークナイト』がヒーローの内面を掘り下げ、その価値をいくらかでも深化させたのだとしたら、『ハンコック』はそこに内輪ウケですよ〜みたいな顔をしてやってきて、実は全くの外側から冷笑を浴びせかけたJOCKSのような映画だった。敵がいないどころか何百年も続く痴話ゲンカだったんですよ、というオチにもならないオチは、今思えば「ヒーロー映画」を徹底的にバカにしたものだったのだろう。最初からパロディです、という顔はしていなかった点でタチが悪いとも言える。ウィル・スミスだけはわりと真剣に「ヒーローをやろう」と思っていたことも、逆に事態をわかりにくくしていた。別に『ハンコック』自体に腹は立たない(腹が立つ程の映画でもない)のだが、「あ、こうゆうのもアリなんだ」とほかのJOCKSに気づかせちゃったんじゃないのか、という危惧はある。ああいう映画が今後雑草みたいに増えてはびこったらヤだな、というくらいのものではあるが。

そろそろ『ウォーリー』に戻ろう。正確にはヒーロー推進派でもアンチでもなく、「フラットに戻ろう」という映画だと思う。間違いなく「みんながそれぞれの役目(存在理由)を持ってるんだ」というメッセージを発している、言っちゃえば『世界にひとつだけの花』だ。『世界にひとつだけの花』は好きにはなれないけど、僕は『ウォーリー』のことは大好きだ。前のエントリにその理由は書いてある。ウォーリーが量産型である、ということはやはり非常に象徴的なことに思える。この論旨には、本来ならきっと9.11やイラク戦争も絡んできてしかるべきだろう。合衆国の住人でもなく、国際情勢にも疎い僕には語れないが、仮にもひとりのリーダーを戴いて臨んだ戦争が終わり、良いも悪いも含めてその意味とか意義が問われ語られ始める時期が、アメリカには来ているだろうから。いやもうすでにそういう議論は始まって久しいのだろう、実際の世間では。ただそれがフィクションの世界に本当の意味で浸透してくるのはこれからだと思う。そうじゃないだろうか?

アメリカでの公開時期はわりと近かったらしい『ダークナイト』(2008年7月18日)と『ウォーリー』(2008年6月27日)だが、そのベクトルは真逆だ。ひとりが全てを背負ってゆく世界と、皆で全てをわけあう世界。追われ、石を投げられ殺されるかもしれないことの覚悟を持たずには生きていけない世界と、生命というものを育むことを、再び試みようとする世界。別に無理して『ウォーリー』をヒーローと絡めて語る必要もなかったかもしれないのだが、「疲弊」や「再構築」や「おちょくり」の入り出したヒーローもの全般の勢いがひと段落したこの今というタイミングで、色んなことを考えるひとつの材料となるかもしれない、と思いました。

年明け三月には、いよいよ『ウォッチメン』も公開じゃ〜〜〜っ。とどめを刺すような出来であって欲しいね。
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