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Posted by - 2017.08.17,Thu
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Posted by LittKidd - 2008.10.30,Thu
十日目、どくしん最終日。咳をしてもひとりィイイイイイ!(放哉/Dio)
マーシーがブログを始めたみたいだ。がんばれ。有給取って明日から九州へ行きます。ヨメやコドモや親戚や実家と合流して、コドモの七五三。写真とか撮るから、こないだ一万円で買ったスーツが活躍の予感だ。一万円といっても、セミオーダーなんだよ。えっとゆざわやっていう生地屋さんがあって、そこがたまにそうゆうキャンペーンやるんだよ。知ってる人に教えられて、チャコールグレイのぱりっとした二つ釦のを作ったんだ。

会社帰りに新宿武蔵野館で『落下の王国』を(やっと)観た。素晴らしい映画。別な目的のためにその場しのぎで語られる青年のお話は、妄想とか願望とかを多分に含んでけっこう現実を生々しく映し出してたりする。でも語られる側の少女にはそういう事情はわからない。ただおのれの想像力を通して、(おそらくは)シンプルなその元のお話の細部を、どんどん膨らませていく。お話は、少女の現実にも大きな影響を及ぼしていく。その影響がまた「ふたり」の「お話」にフィードバックされてゆき、最終的に物語は「ふたり」でなければきっと辿り着くことはできなかったであろう結末へと導かれてゆく。
衣装やロケーション、色彩・構図へのこだわり、といった映像美がさかんに取り沙汰される映画ではあるが(実際その美しさは本当に見事だし、それらがあってこその映画であることは間違いない)、このように「お話」が生まれ、人の心に残っていく、といういわば「物語の誕生譚」である面こそが自分にとっては強く印象に残った。泥をこねて、不細工な何かをかたちづくってるみたいな。青年と少女、ふたりのそんなごっこ遊びのようなお話づくりが、我々の見つめるスクリーンにおいては一分の隙もなく計算し尽くされた映画という芸術に変貌を遂げる。その跳躍に宿るマジック。このお話が本当に元から青年のいうような「一大叙事詩」であったら、ここまでの感動は生まれていなかったと思う。だからこそ、ラストシーンはあんな感じで終わるのだ。壮麗さを極めた本編の映像と、今の僕らの眼から見れば素朴で不格好な、無音のコマ落ちの手廻しフィルム。両者にこめられた作り手それぞれの思いも、観たものが受け取るであろう感動も、根っこの部分では同じものであるはず、という。反語的だが、そういう映画や物語の本来的に持つ素朴な美しさを表した映画だったように思いました。
主演の女の子がまたすごくいいんだよなあ。よく見つけたと思うよ。あと冒頭でフィンチャーとスパイク・ジョーンズの名前が出てて、見間違いかと思ってたら本当にあの二人だった(wiki)。
エンドロール、最後にクレジットされた『GOOGLI FILMS』に思わずにっこり。
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