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Posted by - 2017.06.23,Fri
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Posted by LittKidd - 2009.04.12,Sun
ジャームッシュの映画を観るのは軽く十数年以上ぶり。いかに「映画」そのものに接してない生活をしてきたか、ということがよくわかる。最初の何分かで「うわ、いかにもインディーズだな〜」と思ったんだけど、そう思った僕のほうがズレてしまったんだな、と観終わってから気づいた。ジャームッシュって、一種のヒーローだった。

非常に地味だし一見退屈で何も起こってないように見えるのは、むかし観た『ダウン・バイ・ロー』や『ストレンジャー・ザン・パラダイス』といった作品と同じ印象。『デッドマン』はすごくとんがってた憶えがあって一番好きなのだが、これを機会にもっと昔の作品も観直したくなった。

『ブロークン・フラワーズ』は目覚めの話というか、主人公ドンが変わろうと思う、変わらざるを得なくなるまでの時間を描いたお話だと思う。映画のフォーマットとしては『舞踏会の手帳』(学校の授業で観たので知ってる)なのだろうが、ブッダの四門出遊の話を連想させられる(『君は仏教徒か?』ってセリフもあるし)。東の門から出ると老人が、西の門の外には病人が…というやつ。最後の門の外にはたしか僧侶がいて、そこでシッダルタは出家を決意する(うろ覚え)、というオチが説話としては大事になってくるのだが、映画の最後でドンが何と出会い、どういった変化に至ったか、ということは明確には描かれない。それでいいと思うし、だからいいんだとも思う。なぜなら、四門出遊という説話で示されるのは、いわゆる「生老病死」という人生の苦しみの姿だからだ。シッダルタがもし、一番最初に僧侶と出会っていたら、その姿に感じ、出家を志すようになっていただろうか。つまりはそこまでの過程がミソなのであって、その経験なしに人は変われない。というか、変わる必要がないのだ。

映画を通して、ドンと我々はたくさんの死、あるいは死の暗示と出会う。夫と父親の死んだ家。夢と理想、若さの死(子供の否定)。飼い犬の死。息子の死。そして死者そのもの。出会ったひとびとは、人生とか世の中の縮図としての表れととってしまってよいと思う。年をとるとより強く感じるようになるが、(身の回りで)どういう人が死んだか、というのは自分がどういう風に生きてきたか、ということを映している。物語の構造として、死に触れたものは、それだけ生を希求する。それが最後の、ドンの息子への執着を補強しているのだと思う。

ビル・マーレーはいつも同じ顔のくせに、ちゃんと役柄を演じ分けててすごい。冒頭のおばさん誰だ?って思ってたらジュリー・デルピーでおどろいた。老けたなあ…。あとシャロン・ストーンの娘役のコ、あれはいくら映画でもマズいだろう。ミドル・ティーンをあんなにエロく描いちゃほんとマズいってば!というふうに、役者陣の楽しい映画でもあった。クロエ・セヴィニーとかティルダ・スウィントンも、登場時間は短いけどどきっとするくらい美しい。最後にあの「彼」、エンドロールを見てその名前に驚いた。えっ?!やっぱそうゆう事ッ?! なんかすごく意地悪だけど楽しいっちゃ楽しいラストだと思います。結局謎は謎のままでよくて、そこを深く考えすぎると物事の本質を見失うんじゃないか、とそういう問いかけでもある気がした。
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